こんにちは。ゼロサンです。
忙しい時期も過ぎて、言いたかったこともずっと通り過ぎて行って。
全部言っとこうかな、とも思いましたが、過ぎたことを言葉にするのは難しいと感じたので、今書けることを書きます。
最近、ルッキズムや外見による諸々の判断について色々と考えていて。
俺的には、外見による差別への批判は、人の精神世界に肉薄するようで、恐ろしいと感じたりもしますが。
突然ですが、俺って実は斜視なんですよね。斜視。
それも外斜視です。片方の目がまっすぐ向いているときに、もう片方の目は外側を向いている状態になること。
ただ、実際にお会いした方には、そうは見えないかと思います。
中学生くらいのときに努力しまして、自力で両目が同じほうを向けるようにしました。
なので、見た目上は、「健常」とはいえないかもしれないけれど、「正常」とはいえるかもしれないです。
我々は、人のどこを見るときでも、無意識にその人が「正常」かどうかを判断しようとします。
目に関していえば、瞳の色や大きさは自民族のそれに即しているだろうか、白内障などではないだろうか、目の全体の形は自民族の形に即しているだろうか、腫れぼったかったりしないだろうか、などなど……。
これらのいくつかの条件を満たせば、たとえ「健常」でなくとも、「正常」と判断することになります。
俺の場合は、目の周りにかなりのクマがあり、あまり健康そうとはいえません。また、視力も落ち、両目に視差(視力の差)があるので眼鏡という補助器具をしています。なので、「健常」ではないでしょう。
ただ、目の周りのクマも、眼鏡も、近年はスマホやパソコンの普及により、少数派とはいえなくなっています。「健常」ではないけれど、クマがあったり眼鏡をかけてたりする人ぐらいはその辺にいる、と思われているでしょう。その意味では「正常」の範疇です。
一方で、多くの場合、斜視は「正常」の範疇から外れます。我々は、漫画などの表現で、「何だかやばい雰囲気(の人)」を表すときに、時として外斜視を用います。また、実際に斜視の人に出会ったとき、口には出さないけど、驚いたり、違和感を覚えたりするでしょう。
数も少なく、あまり良い意味での表象としては使われず、「ロンパリ(片方がロンドンの方角、もう片方がパリの方角を向いているというジョークから来る差別用語)」などといじめられることもあります。
斜視には機能的な問題もあります。視力が落ちて視差が出来るのは、斜視の影響が大きいです。また、立体視も出来ません。
そのような機能的な問題を挙げた上でも、やはり見た目の問題のウェイトは大きい。見た目の問題は、人によっては避けられない、恐ろしいものであるということは、俺にとっても自明なものです。
世の中の多くの人は、見た目によるコンプレックスを抱え(させられ)ているように思います。そして、「どのような見た目も、その『努力』によって改善される」と考えている人だって、そう少なくないのではないでしょうか。
事実、俺も『努力』によって改善されました。この世のルッキズムに迎合する形で。それは意図せずとも、自ら望んだものでした。
……ってなところまで、今年の7月に書いてあったみたいです。今これ下書きから発掘したやつ。
すごくないっすか? 俺、ここから自分が何を書こうとしてたのか、全く分からないんですけど.
なので、今回のブログはこの内容が一体どこに行き着くはずだったのかを、想像しながら続きを書こうと思います。
やっぱ、標記の「絵を描く」っていうところにこだわりがあると思うんですよ。
「絵を描く」ことが、見た目とか、美という話に繋がってるんですね。で、「俺たち」って誰なんだろうって考えたときに、この世の外見と美に関わる人たち1人残らず含まれるのかなあとか。
じゃあ7月頃の俺が「絵」「美」「見た目」についてどう考えていたのか。とりあえずツイートを遡ってみました。
関連ツイートとしては、以下の感じでしょうか。
「@ZER0_SAN3 絵」の検索結果から
https://twitter.com/zer0_san3/status/1016751582292017152?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1014525491586322432?s=21
「@ZER0_SAN3 美」の検索結果から
https://twitter.com/zer0_san3/status/1022489110399733762?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1017057475571269632?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1015965709023641602?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1014835797357236231?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1014532840485052416?s=21
「@ZER0_SAN3 見た目」の検索結果から
https://twitter.com/zer0_san3/status/1013696766573547520?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1013629775720542208?s=21
……って思ったら、決定的なツイートを見付けちゃったんですよ。
https://twitter.com/zer0_san3/status/1013292765394812928?s=21
https://twitter.com/zer0_san3/status/1013293061395238912?s=21
あとこんなのも見付けた。
https://twitter.com/zer0_san3/status/1014197234252967936?s=21
ぜってえこの記事だろお前、書き始めた途端に忘れてんじゃねえよ!
まあそれは置いといて。
一個前のツイートですよ。たぶん、これが一番関連してる。
「美」を希求させ "られ続ける" ということに対する違和感。俺は見た目を健常者寄りにして、その上で格好いいとか可愛いとかを目指してきたわけだけれど、それは個人的に自分のアイデンティティとしてやってきたことであって、強要されるべきではないと思っている。
俺は、絵を描くことができない。それは、俺が空間認識に対して機能的な問題を抱えているからかもしれないし、単純に不器用なだけかもしれない。でも、絵を描くことに関して、ほぼ「描けない」と思うレベルで苦手意識がある。
ただ、絵を描くことができなくても、それは自己表現ができないというだけであって、差別されたり、馬鹿にされたりするわけではない。それは俺が絵を描かなければならないような文化圏にいないからだし、俺が絵を描くような職業に就いていないからだ。
見た目だって、そうではないのか。そうであるべきではないのか。「見た目」の美しさを商品として売っている人以外は、それを求められるべきでなく、またその表現やその表現に対する評価が差別であるならば批判されるべきなのではないか。
……ってことを、この下書きでは書きたかったんじゃないですかねえ。
ちなみにね、こんな長文なのにまた違う話を載せて申し訳ないんですけど、ちょっと見た目ついでにこの話をば。
卒論の関係で、鷲田清一という人の本を読んだんですね。この人は、服飾論とか、〈顔〉論とかに関連する本を書いてる哲学者なんですけど。
この人は、『ちぐはぐな身体』だったかな、そんなタイトルの本で、人間の身体はみっともないし、ままならないって話をしてたんですよ。
で、中でも一番ままならないのは「顔」だって言ってたんですね。それをふと昨日、思い出して。
昨日、この下書きを発見して、それについて書こうと思ってたので、風呂入りながらちょっと頭に続きとか思い浮かべてたんですよ。
そのときに鷲田清一を思い出して、身体を見渡してみたんです。そしたら、確かに身体ってのは、他所から見た姿と自分から見た姿は違うし、身体の後ろ側は鏡やカメラを通してしか見られない。見られないもの、もしくは下手すれば触れることすらできないところを、俺たちは「自分のもの」だと認識している。
(鷲田は、だから人間は服を着て、服の感触によって自分の身体を認識することで安心するんだって言ってる。)
顔なんてのは、もう絶対に鏡か映像を通してしか見られない。風呂入る前に鏡を眺めて、「これが俺に貼り付いてるのか」と、ちょっとゾッとした。鏡像が嘘だとは思わないけど、実際にこれが貼り付いているところを直接見ることはできない。
証明写真で、鏡像と逆向きに分けられた髪型なんかを見ると、なんか変な感じ。
そんで触ってみたら柔らかかったり、鼻の骨なんかは硬かったり、ニキビ跡でデコボコしていたり、まっさらなところは実りたてのトマトみたいに張ってたり。湯船に浸かりながら一生懸命たくさん触ったけれど、アレが貼り付いているなんて、改めて考えると、にわかには信じがたい。
卒論では、「他者と明確に区分できる存在」という形でアイデンティティを語っていたけれど、本当に?
産毛は? 顔の皮脂まで自分といえる? 自分って、どこまで自分なのだろう。
こうやって、本当は自己認識なんか曖昧なんだってことを確認してしまうと、俺みたいなのは恐怖を覚える。
ずっと、相手とゼロ距離になることが愛だと思って、愛の中で暴力を受けてきた俺としては、もう二度とそんな状態にはなりたくない。
自分は自分でありたい。「俺」を見失いたくない。
というわけで、これから言い訳をさせてください。
俺が、記事やツイートで、女性として自身を認識されている人に対して、「彼女」とかって言葉を使うのは、俺自身が「自己認識」や「アイデンティティ」というものを大切にしたい(っていうか奪われたら怖いだろうな)、って思ってることを表明する、意思表明なんです。
だから、自身のことを「女性」であると明確に言葉で表現した人しか、「彼女」なんて指してません。
KizunaAIさんなんかは「性別がない」と仰ってるので、俺はいつでも三人称代名詞を「あの人」とか「この人」なんて言うわけです。
12/17注記:ミス。KizunaAIさんは人ではないので、「あの方」「この方」と呼んでいる。
あと「バーチャルYouTuber」か「VTuber」か、そうでないのかも気にします。輝夜月さんのことを書いたときに、「彼女はバーチャルYouTuberではない」としたのは、彼女が一度も「バーチャルYouTuber」を名乗ったことがなく、またYouTubeというプラットフォームにこだわらないようなことを仰っていた(要確認)ためです。彼女のことを「彼女」と呼ぶのと同じ理由。それも動画の端々で、自身は女の子であると言っていますから。
ちなみにKizunaAIさんは動画の初めにバーチャルYouTuberと名乗るのをやめましたが、バーチャルYouTuberであることにこだわってらっしゃるので、そう表現します。
そういう理由で「彼女」という表現を使っておりました。ただ、これはやはり切断の意味を伴ってしまうものなのだろうなと、今少し反省しています。
俺も性別による社会構造に対して一言二言三言2万字3万字(卒論)と述べてきた立場としては、性別における分断、切断には少しでもセンシティヴでありたい気持ちがあります。今後これをどのように表現してゆくのかを、もう少し考えさせてください。
言い訳終わり。お目汚し失礼いたしました。
こんなクソ長い文章をお読みいただき、本当にありがとうございました!