zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

「愛にできることは……」

 こんにちは、ゼロサンです。

 以前に、似たようなエントリを書いたことがあるのですが、ちっとも進化が見られないので、今回はその進化が見られない部分を綴っていきます。

 ……って見に行ったら、2年前の記事でした。流石にその頃よりは多少違った考え方になってます。

 

 私は、相変わらず、愛というものが苦手です。

 かつて、RADWIMPSさんの『愛にできることはまだあるかい』にて「愛の歌も歌われ尽くした」とあったほど、世の中に愛は溢れかえっています。しかし時には「愛」の名のもとに、人を傷付けることを良しとしてしまうことがあります。

 

 気を付けていたって、止まらない。「あなたのためなのに」「ここまでしてやったのに」とキレる親や恋人の話など、よく聞く話でしょう。よく聞くのに、そんな話は、ひとつの反省も伴わずに、いつもどこかで起きている。

 

 結果として誰かのためになることはあるし、「誰かのため」と人に想いを寄せることこそ究極の思いやりで、ひとつの愛の形なのだろうなと思います。ただ、それが思いやり足り得るのは「すべてがその誰かのためになるわけではない」と知っている人だけです。

 

 そんな、「あなたのためだ、あなたを愛しているからだ」という言葉に、「それは本当の愛ではない」なんて、私は言いません。

 

 「人は意味のないものに意味を持たせる」。私のお気に入りのセンテンスです。自分が意味付け、信じたことを、「愛」と呼び、「生」と呼び、「死」と呼ぶ。本当は、元々は意味などないことなのに、「これは意味があることなんだ」とすっかり信じ込む。

 

 だから私は、「本当の愛」などという言葉が嫌いで、愛をすべて一緒くたにして神聖視する思想が大嫌いです。どうせそうやって私に暴力を振るってきた奴らも、同じことを言ってきたに違いないから。「本当に愛してるから」と。

 

 「愛」とは信念で、ひとつの譲れないもの、正義の後ろ盾のことを指すのでしょう。そう解釈するなら、絶対的で、神聖で、まるで穢してはならない地位を保つ「愛」ってやつも、きちんと疑ってかかってよい※ということになります。愛というだけで、過ちが許されるわけじゃない。「意味のないことに、勝手に意味付けをしている」んですから。

※「きちんと疑ってかかってよい」とは、「それは愛じゃないだろう」「あなたは口先だけだ」ということではなく、「愛しているからと言って、暴言や暴力が許されるわけじゃない」という意味。所詮すべての愛は、強烈な思い込みに過ぎない。

 

 意味のないことに意味付けすることで「人」と「愛」を繋ぐなら、「それでもあの日の君が今もまだ僕の全正義のど真ん中にいる」なら、「愛にできることはまだあるかい」という問いに答えましょう。

 

 「愛にできることはまだあるよ」。