zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

「コミュニケーション」は、常に誰かを排除する。

こんにちは、ゼロサンです。お久しぶりです。

今回は、特に脈絡もなく思い付いたお話です。いわゆる、雑記。

夜中にふらふらと思い付いたことなので、適当に読んでいただけたら幸いです。


‪私は普段から、言葉を大切にしたいと思っています。精選された言葉は大好きですし、適当に放たれた言葉に対しては、面白いと思っても、傷付いているときもあります。例え私に対する言葉ではなくとも。

面白くても、傷付くことってあるじゃないですか。リズムネタに人を罵倒する言葉が乗っていたら、リズムは面白くてハマってしまうけれど、言葉自体は嫌だ、とか。人を差別する言葉に、「面白くない」「つまらない」と反論している人がいるけれど、別に面白くてもいいと思います。「傷付いている人がいるのに、面白がるのか」というのも、問題の筋が違う。面白かろうがつまらなかろうが、人を傷付ける言葉を選んだことが問題なのです。


言葉を大切にしたいのは、言葉というものはどうにも不便で、必ず誰かを排除してしまうし、受け手側のコミュニケーションコストが高いものだからです。だからこそ、「自分は一体その言葉で誰を踏んでいるのか」に気付ける。誤魔化しが効かない。その寂しさに気付かなきゃ、と思うのです。


‪言葉とは、その言語を理解出来ない人を排除するし、その文脈にそぐわない人や、入れない人を排除します。他の表現もきっとそうだけど、日常的に使う「言葉」にこそ、意識しない場面で、誰かを排除してしまう自分が表に出てしまう。

‪「言葉」は曖昧で不確かだけれど、同時に物事を定義してしまう。だから私は「言葉」の相反する性質が好きで、同時に怖いなと感じています。身体から離れた表現によって、別の次元に世界を立ち上げ、本質を共有することが出来る。と共に、意図せず人を傷付け、定義から除外し、排除します。

「女なら」「社会人だから」「大人なのに」「60歳になったので」「じゃあ○○じゃないってことなんですか」「喋れないの?」「音楽では」「界隈には」「バカ」「アホ」「障害を乗り越えて」

意図せず、人を排除して、寂しい思いをさせてしまう性質が、言葉にはあります。


ある時、私は職場の子どもに対して、「あなたは喋れるでしょう」と言ったことがあります。この時の自分の発言がショックで、今でも忘れられません。

「あなた "は" 喋れるでしょう」。喋れるなら言いたいことを言いなさい、という意味で放った言葉ですが、喋れない他児の気持ちを、すっかり意識していない言葉でした。"は" という助詞は、自と他、そのものと別のもの、というように、人や物を切り分ける効果があります。切り分けられた人たちのことを、私はこの時、考えていなかった。完全に、失言でした。


‪今でこそ、絵や歌に感想をつけることが出来る私ですが、ほんのこの前までは、言葉以外の表現から、文脈を汲み取ることは不可能でした。文脈が汲み取れないことが、文脈からの排除と言えるのであれば、よく分からないまま美術館や映画館で過ごす寂しさは、私にとって「排除される寂しさ」でした。

‪絵や歌の勉強をして、解説を読んで、ようやく人と同じくらいには、「その絵や歌がどういう性質を持つものだから、自分の感情がどのように動いたのか(可愛いのか、格好いいのか、どこに感動したのか)」を説明出来るようになりました。私にとって、絵や歌と自分の感情を結びつけるものは、言葉でした。

そうしてようやく、言外の意味を汲み取ったり、「言葉を大切にする人ほど、『言葉にしなかったこと』に本当のことが隠れているんだ」と気付いたりが、出来るようになりました。「言えることが知性、言わないことが品性」とは、よく言ったものです。


‪「排除される」というと、被害者ヅラと言われてしまいますが、どんな表現も、きっと誰かを排除してしまっていて、多くの場合はそれに気付かないのだと思います。だから、一番身近で、一番私の大好きな「言葉」でこそ、それを意識していたいと思うのです。


今日はこんなところで、終わります。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


それでは。