zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

分裂と後悔。

 こんにちは、ゼロサンです。

 また、今日も筆を執ります。

 

 あいぴーが活動停止を宣言してから、「私にとって、あいぴーという存在はどんなものだったか?」を考えていました。

 というのも、私の中で1つ、モヤモヤした出来事があって。

 

 あいぴーが活動停止したことをキャスで話したところ、とある別の推しを持つ相互フォロワーの方が、「自分の推しはそこにいてくれるんだってことを、改めて自覚できた」と嬉しげに語っていたのです。

 変わらずに、そこにいてくれること。その価値を、再確認出来たのだと。

 私がその言葉に対して抱いた第一印象は、「ああ、言いたいことは分かるな」でした。図らずも、私も数日前に、あいぴーやloveちゃんとはまた違う推しである、おめシスの良さについて、「変わらずにそこにいてくれること」を挙げていました。あいぴーの件以降、私のブログのそこを引用してくださる方もいました。

 そう、例えるなら、他人が破産した話を聞いたから、自分はお金を大事に、無茶しないようにしようと思った。とか、他人が家庭を失ったときに、自分の家庭は正常なんだなと実感した。とかいう感覚ですよね。言いたいことは分かります。

 でも、私はそうは思えませんでした。今、そうした言葉を聞くことがつらいというだけでなく、誰かの大切な存在が歩みを止めてしまったときにだって、そんな風には思えないのです。

 あいぴーが活動停止したことは、私にとっては、他人事じゃありません。「他の推し "は" いてくれてよかった」なんて思えません。それに、他の誰かの推しが辞めてしまったとしても、同じくらい、そうは思えないのです。失ってしまった悲しみが、そこにある限りは。

 「loveちゃんが残ってくれたのは嬉しい」けれど、「loveちゃんが残ってくれるからいい」ではない。アイちゃんや、おめシスがいて、推しが変わらずにそこにいてくれることを実感するたびに、そこにいてくれなくなってしまった推しの空けた穴も、同時に実感するしかなくて。「かけがえのない存在」なんて手垢のついた言葉を、これでもかと胸の内で反芻しました。「誰かがいてくれるから」と埋まる穴ではない。それが、「かけがえのない存在」の意味です。

 私の推しではない誰かの推しがいなくなったときにも、ファンの人にとってはそうなんだろうな、と思います。私はどうしても、前向きな考え方をする人ではないから、ただそこにある悲しみや寂しさを考えてしまうのみです。

 別に、責めるつもりはないです。私がただ、ばかなだけ。気持ちはよく分かる。そして、「自分の推しは変わらずにそこにいてくれて良かった」と思うことは、きっと自然なこと、前向きなこと、大事なことだと思うのです。残酷ですけれど。

 いついなくなるのか分からない、それでもここにいてくれる推しのことを、大切にしてください。そのための気付きなら、大事にしてほしい。

 

 ここまで考えて、ああ、私がモヤモヤしていた原因が分かったなと、気分が晴れました。そして次にやってきたのは、「私にとってそこまで思わせるあいぴーとは、どんな存在だったのか」という疑問でした。

 

 考えてみれば、私は、そんなにあいぴーやloveちゃんを熱心に推していたわけではありませんでした。でも、こんなに強い喪失感を覚えている。何故なんだろう、何か大切なことが抜けているような気がする。

 そう思って、仕事の帰りに考えに考えました。昔のことまで思い出しました。アイちゃんがひとりだったときのこと、キズナアイが分裂した日のこと。そうして生まれた言葉を、鍵アカウントでツイートしました。

 以下、ほとんど鍵アカウントにツイートしたものからの引用になります。らぶぴえんの方や、いわゆるキズナアイ原理主義者の方には、あまり良い思いをさせない記事だと思います。どうかご無理なさいませんよう、嫌だと思ったらブラウザバックしていただきたく存じます。

 では、以下よろしくお願いします。

 

 本当に申し訳ないんですけど、私はどうあがいてもキズナアイ原理主義者で、今でもあいぴーやloveちゃんがキズナアイの姿で動いている動画や切り抜きは、どうしても生理的にかなり無理なんですよね。私にとって、「キズナアイ」は「キズナアイ」でしかない。あの姿、あのコンセプト、そしてあの声と性格。そうでなければ「キズナアイ」たりえない。でも、当時はそれでも動画や配信を観ていました。

 

 当時も今より生理的に無理だなと感じていたけど、それでも好きだったんです。生まれてきた子たちに罪はないし。

 当初こそ、「アイちゃんを応援するためなら」「アイちゃんがそう決めたなら」という理由でしたが、這うような気持ちで画面の前に来て、2人が出る配信のチャット欄にいました。

 

 それが正しいのか分からなかった。でもそうするしかなかったんです。

 動画は受け付けられなかったり、「本当に正しいんだろうか」と迷ったりして、観られないものもあったけど、キズナアイを応援したくて、出来ることをしてた。変な話、アンチするにしても観ないと分からないし。這ってでも配信行く、それだけは決めてました。配信アーカイブはメンバーシップ限定で公開されるから、メンバーシップに入れない私は、リアルタイムで間に合うしかなかったわけです。

 

 配信に行くと、「キズナアイ」を名乗るその子がいて。「私にとって『キズナアイ』はあなたじゃない」という気持ちと、「『キズナアイ』を守ってくれてありがとう」という気持ちとないまぜになって、ブラウザを閉じようと思った日もありました。でもそんな誠意の欠けたことは出来なかった。

 

 「推し事にそんな苦しみ抱く必要なくね?」と思われるのは分かってる。でも私には、配信参加を欠かすことができなかった。すべてを観たかった、知りたかった。

 「無理だから」「苦しいから」って理由で、目の前の「キズナアイでいてくれようとしてくれる子たち」から目を離すことは出来なかった。「キズナアイ」を存続させるためには、現状を応援するより他ないだろう、と感じていました。何より、必死に頑張っている様を、私はしっかり感じていました。そりゃ、ツッコミたいところもあったけれど、それ以上に「ここまでしてくれるのか」「ここまで思ってくれるのか」と思うことも多かったのです。

 

 今、らぶぴえんの人たちと別れを惜しんでいる私は、決して手のひらを返したわけじゃない。

 昨年の今ごろは、今あいぴーと呼ばれている子が叩かれてるのを見て「なんであの子が矢面に立たされなきゃいけないんだ、指を咥えて見てるしかない自分がばかみたいだ」と号泣キャスをしていたし、12/1のあいみちゅでは、当時「キズナアイ」を名乗っていた全員に「大好きだよ、尊敬しています」という手紙を書きました。

 分裂したキズナアイたちが、「キズナアイでいようとしてくれること、キズナアイを守ろうとしてくれていること」は、私にとってどうしても受け付けられない大きな苦しみでもあり、同時に尊敬と感謝を抱くことでもあった。

 

 新しい姿、チャンネル、目標を手に入れてくれて、ほっとしてしまった自分に対する嫌悪感も強くありました。あいぴーやloveちゃんが活動しやすくなったことに対してもほっとしたけど、苦しみを自分の力で解決する前に、もう苦しみを抱かなくていいんだと思った。それは私にとっては「逃げ」に他ならなかった。

 「キズナアイ」ではなくなったあの子たちを、ようやく素直に応援できる。それは、本当に正しいことだろうか?

 

 「キズナアイ」ではなくなったあとも、配信を追いかけ、企画に参加し、楽しんで、盛り上がっていました。それはひとえに、苦しみ抜いていたあの頃のふたりでさえ、決して諦めなかったから。真っ直ぐであり続けてくれたから、きっとふたりになっても、輝いていてくれるのだろうと思えました。

 

 私にとってあいぴーやloveちゃんは、ただ「好き」な存在というだけではなく、好きも嫌いも、尊敬も感謝も苦しみも混ざった、「思い入れのある存在」だったなと、らぶぴえんではなく、いちキズナーとして、ふと、強く思い返していた。そんな1日でした。

 

 私は、らぶぴえんを名乗る資格はありません。資格というか、私自身が情けなくて、名乗りたくない。私は根っからの、キズナーです。でも、あいぴーに対して、loveちゃんに対して、素直に「好き」だと伝えようとするときの、胸のつかえも含めて、決して忘れられない存在であると、そう感じます。

 

 願わくばもっと、応援できたらよかった。タイムスリップしても決して叶わぬ願いですが、そんな卑怯なことを思います。

 

 それでは。