zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

#特ゼロ『仮面ライダー』が好きになってきた

 前回のあらすじ

 今週のリバイスが面白かったから、そこから発展して自分の仮面ライダーに対する想いを語ろうとしたら、話がズレちゃったから後半を分けたよ! 微妙にじっとりした話が長々と出るし、あんまライダーじゃない。

 

仮面ライダーって独特な文脈があるんですよ

 今更それ? もうこの記事〆たのでは?(※これは前の記事の後半という予定でした) とは思うんだけど、ここへ来て、仮面ライダー初心者の戯言と、長すぎる自分語りを聞いてほしい。蛇足蛇足。

 仮面ライダーってものがどんなものか知らないまま何作か履修していて、「仮面ライダーが描くヒーロー像」についていくつか思ったことがある。

 

ヒーローと敵が、同質のチカラを有する

 

 今作のリバイスはそこを比較的明快な形で取り上げているなぁと感じる。何といっても仮面ライダーでいちばん重要な文脈はコレではないか?

 私なんかは言い訳しようがなく最初のライダーはアマゾンズなので、この文脈に関しては強制的に受け入れざるを得ない部分があって。内なるアマゾンを飼い慣らす、表向きは人間として暮らすけれど人間ではない異質な存在である、という懊悩をありありと描く作品だからこそ入りやすかった。

 

 自らの暴力性や衝動、欲望、異質な "何か" を葛藤しながら飼い慣らす作品ってのは、ライダーに限らずあるんすよね。

 『東京喰種』とかも、主人公が喰種に襲われて死にかけたところを、喰種の臓器を移植されて半分人間半分喰種になっちゃう話でしょ。アレも、食人衝動があるのは喰種としては当然ながら、それまでは人間だった、今でも人間だ、という帰属意識が手放せないところがある。

 『BEASTARS』なんかもそうだろうか。ヒト以外の動物が、二足歩行で言葉を話す世界の話。肉食動物も肉を食わずに生きていけるようになったのに、好きな相手を食い破りたい衝動と戦うハイイロオオカミのレゴシ。

 肉食動物が引き起こしたとされる未解決の食殺事件、レゴシが間一髪で暴走しそうになった食欲という名の暴力性——— ウサギの血を服用した仲間に対する激昂。自らが戦い、恐怖してきたどうしようもない欲望を、悩みもせずに正当化する奴らに対する怒り。

 『亜人』や『亜獣譚』なんかも近いものを感じる。こちらは生まれ持ってしまった変えられないモノをどうこうする話。

 『亜人』のほうは、不死の存在 "亜人" が発見されたよー、人権剥奪されて本当に死なないのか実験されてるよー、見た目人間と変わらないから死なないと分からないよー、ってところから物語が始まって、自分は関係ないなぁって話を聞き流してた主人公がトラックに轢かれて原型なくなったのに生きてるっていう。

 幼い頃から亜人の分身である黒い幽霊を見ていたという点においては、微妙にリバイスと近いような気もする。自身の中に飼っている、理解の範疇を超えた存在に対する畏怖と、人間に捕まって実験されるかもしれなくとも、それまで暮らしてきた世界や大事な人たちを壊したくない気持ちと。こっちはアマゾンズに近いのかな。

 『亜獣譚』は、害獣病という、人間が怪物になってしまう病気が流行している世界で、怪物にならなかった害獣病患者の主人公が、害獣を狩る話。自身の暴力性を裁くように、慈悲もなく害獣を狩る主人公の悲しみと孤独に惹かれたり。

 オタクじゃないから詳しくはないんだけど、こうした作品にはどうしても興味がある。これらの作品は、自身の抱える何物/者かと戦い、受容し、拒絶しながら、それぞれ、別の結論を導き出す。私は、「こうした作品」を一緒くたに好きになるというよりも、「それぞれ、別の結論」のほうに関心が向いてしまうのだ。

 

 ふつうの人は、テレビに映る犯人や悪人を、自らと切り離して、「有り得ない」「考えられない」と切り捨てるのだろう。でも自分の中に、どうしようもない "怪物" が眠っているとしたら?

 

 私はずっと、自分の中の暴力性と戦ってきたので、そうしたテーマの話がどのような最後を迎えるのか、に惹かれてしまう。制御したくても出来ない、誰かを傷付けてしまいたい衝動。

 それを正当化したいわけではない。可哀想に思ってほしいわけでもない。でも、本当は誰にでもある欲求ではないのか? という疑問と、どうしていつも傷付けてしまうんだろう、どのように生きていけばよいのだろう、という葛藤があった。

 今でこそ、「創作物で人が死んだらたのしい!!!!!」と、性癖として開陳することで吐き出しているものの、幼き日には、実現してはならない欲望だという感覚もなく。とはいえ、物心つく前後に猟奇殺人事件などが起きていたんで、知識としてはよくないものだと分かっていた。

 ※ 念のため申し上げておきますと、私はセキツイ動物をこの手で殺めたことはありません。

 善意とか悪意とか関係なく、壊れたら楽しいし、ちぎったら面白い。幼児期の変化を求める欲求のように、取り返しのつかない事態に魅了されてしまう。良識や分別とは異なる次元の欲動。だからこそ、抑えることが難しい。これを "怪物" と呼ばずして、何と呼ぶだろうか。

 しかして、自身の暴力性を前に "為す術なし" としてしまえば、刺すか刺されるかのデスゲームになってしまう。この点に於いて、私はかなりの時間を "自己との対話" に費やして来たと思う。

 自責の方法も、人の痛みを知る方法も、自分を止める方法もたくさん試した。いつだって戦ったし、自分を傷付けた。でもそれじゃ解決しない。だから、よく考え、言葉を紡ぎ、何度も何度も文字に起こした。

 

 ……自分語りは、この辺にして。

 自分の中の怪物、害悪、悪魔を飼い慣らすには、絶え間ない対話が重要だと思う。他者との関係性の中で自己を見い出す時期を過ぎたら、今度は一対一、自己と自己の語りこそが自分を作り上げる。

 切っても叩いても変わらないだろう自分自身の輪郭を、自らの胸の内で撫ぜる。そこを今回のリバイスでも見られたなぁ。

 暴走してしまったり、誰かを傷付けたりする人もいる中、邪険にしたって消せるものでもないチカラ。それが自らの弱さから生まれた悪魔。最強のマイナスを最強のプラスに、「相棒」と呼び人を救うために使うところに、密かに胸を打たれた。

 自分の弱さ、敵のチカラ、一般的に悪いとされるもの、そういうものを全部包摂して自分のチカラにする。でもそれは孤独で、凶悪で、誰にも理解されない恐怖の対象。いやぁ、今週のリバイスは特に、仮面ライダーしてたなぁ。

 

 自分自身を飼い慣らす作品は、ライダー以外にもあるけれど、強いてライダー特有の点を挙げるとするなら、正義や善性ゆえの孤独かなぁと。

 同じ能力を持つ敵対勢力とライダーを、唯一分つ点といえば、正義の心。悪に染まってしまえば仲間もたくさんいるのを、ひとりだけ、立ち上がる勇気。

 正義の反対には別の正義がある、でもなく。かといって、勧善懲悪というだけでもなく。ともすれば誰かを傷付けてしまう、自らを巣食う悪性のものを、正義の心と勇気で善性のものにしてしまうチカラ。大きな組織とか、多数派とか、伝統とかの後押しするものを持たず、ただひとり戦い続ける。そのへんはこないだ観たクウガがいちばん近い気がするけど。

 少し言葉にしづらくなってきたんだけど、「悪いものは悪い」と切り離すのは簡単だと思う。そうした悪性は、自分の中に無いもの、と思い込めば、無いものになってしまう。本当は、多くの人の中にあるはずなのになぁ、と私は思っている。

 ちょっとした勢いで、誰かを傷付けてしまいたくなる。傷付いたら痛い、叩いたら痛いって、誰が教えてくれるの? 怯えて手が出たり、カッとなって嫌なことを言ってしまったり。悪いことをした相手を辱めて、「あぁ言ってやった」とスッキリしたり。その延長線上に、悪も善もあるのに。

 テレビに映る犯人や悪人を「有り得ない」と断じるのではなく、恐怖、悪、弱さと、正義、善、強さは、どちらもほとんど必ず人の中にあるもので、地続きである、みたいな。このへんもクウガの新聞報道なんかで感じたところ。でもリバイスもそうだよね。

 

 まとまらないけど、そんなことを思ったのでした!

 それでは。

 

 

 ……そういや、Wの話が全然出てこなんだわ。Wめちゃくちゃ好きなんだけど、他の作品でこの文脈喋っちゃったほうが早いなってなっちゃった。そんでは。