zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

障害者の生きている意味。

 

こんにちは!ゼロサンです。

突然ですが、こないだこんな話を聞きまして。とてもショッキングな話なんですけれども、もしよろしければ聞いていただきたく思います。

「社会に役割を果たさない障害者は、生きている意味がない。」

この言葉について、皆さんどうお考えですか?

人によっては、反論出来ない人もいれば、ふーん、で済んでしまう人もいたり、そんなこと言ってる人ダサいな、と感じたり、絶望的な気持ちになったりする人もいると思います。

この言葉には、どんな根拠があるでしょうか?或いは、(あると信じたいですが)この言葉を批判し得る根拠はあるでしょうか?

まず、生物学的な合理性を見ていきましょう。

よく根拠として示されるのは、ダーウィンの進化論です。学校の理科の授業で聞いたことがある人も多いかもしれません。
適者生存、自然淘汰・・・・これらを聞いていると、まるで適応出来ない者は死んで、自然と淘汰されるべきだ、という風に聞こえるかもしれません。
しかし、実は違うんです。
ダーウィンは、「適応出来ない者は死ぬ『べき』だ。」とか、「自然に淘汰される『べき』だ。」なんて言ってません。
「適応出来ない者は、自然に淘汰されてゆく。」と言っているだけです。
『べき』じゃない。ただ、何もしなくとも、そう『ある』のだ、と言っています。
つまり、適者は自然と生存し、適者でない人は自然と淘汰される。
淘汰されない者が生きることを、邪魔せよ。という話では決してありません。

また、ダーウィンの進化論を科学的に正しいと思うのであれば、生物多様性という観点からも、障害者の生を否定することは合理的とは言えません。
生物は、たとえその時点では生きるのが苦しそうな性質を持つ個体だったとしても、環境が少しでも変わればその性質が優位になることがあるのです。
大体、近親での生殖やクローンが病気に弱いことからも分かる通り、似たような性質を持つ者しかいなかった場合、少しの負荷で種が絶滅してしまうこともあるのです。だからこそ、自然科学的な意味での合理性を考えても、より多様な性質が生きている方が良いのです。

参考
「【哲学】なぜ「役に立たない人」にも基本的人権を認めるべきなのか?−相模原の障害者施設・殺傷事件を受けて」
http://p-zombie.hatenablog.com/entry/on-sagamihara-incident

弱者を差別する自分は合理的である、という考えは、このように、あまりクリティカルな考えであるとは言えません。
生物学の範囲でクリティカルな差別主義を展開する唯一の方法は、今、学校教育で基礎知識となっている、ダーウィニズムを批判することです。

生物学という観点から離れて、社会科で習っている人も多い、人権の観点からこれを見てみましょう。
人権は、人間が人間故に享有する権利です。全ての人間が生まれながらに持っています。
元々は国家権力からの自由を求めたものでした。
キリスト教的な価値観から生じたと言われますが、今回はそれは置いておいて。

人は誰でも社会的弱者になる可能性が あります。
明日、事故に遭うかもしれない。
明日、一文無しになるかもしれない。
明日、病気が判明するかもしれない。
明日、一家の大黒柱がいなくなるかもしれない。
貴方の投資しているものの価値が、無くなるかもしれない。
貴方の属する属性が、被差別的な属性になるかもしれない。
明日じゃなくとも。

だからこそ、人権という考え方が、全ての人に必要なのです。

障害者にも、子どもにも、女性にも、性的少数者にも、ルッキズム的弱者にも、貧困者にも、低学歴者にも、被差別部落民にも、アイヌ民にも、在日外国人にも、有色人種にも、ホームレスにも、
健常者にも、大人にも、男性にも、性的多数者にも、ルッキズム的強者にも、富裕者にも、高学歴者にも、被差別部落民以外にも、本土のひとにも、国民にも、白人にも、住所のあるひとにも、
犯罪者にも、
そして、あなたにも。

「こんなに理屈っぽい言い方しなくても、人間なんだから生きてていいんだ!」と、仰るかもしれません。
むしろ、「こんな理論武装することこそ差別的なんだ!」と、仰るかもしれません。

ごもっともです。

でも、俺達は、少なくとも被差別的な人間は、一時的にでも、少しでも、理解を得なければならない瞬間があるのです。
かつてのフェミニズムのように、かつての(今もかも)LGBT運動のように、誰でも巻き込んで生きていかねばならないときがあるのです。
もちろん、こんなこと主張せずに、理解を得られたほうが、いいに決まってる。
だってかつてのそのような動きを見せた社会運動は、自分達のその理屈で自分の首を絞めて死にかけてるんですよ。

それでも。
俺達の中に、まだこの方法を必要としている人達がいるかもしれないから。
だからせめて、その人達に届きますように。
 
年末最後の更新でした。

(多分)

アカシジアの地獄。

 

こんにちは、ゼロサンです。

年末最後の更新にならないように気を付けます笑
(まだ書きたいことがあるので。)

今回は、「アカシジア」 という症状についてお話します。

アカシジア」とは?
主に抗精神病薬の副作用や離脱症状(薬を止めてから出る症状)として、静坐不能(静かにじっとしていることが出来ない状態)に陥ること。
むずむず脚症候群」や「遅発性ジスキネジア」、「タシキネジア」なども参照のこと。

俺なんかは、これを、抗精神病薬(その中でもベンゾジアゼピン系)を飲んで発症したわけです。
しかもベンゾの次に違うベンゾ服用し始めて、そのあとだったから、副作用なのか離脱症状なのかどっちが原因か分かりゃしない。

とにかく酷い日々でした。
奇声を上げ、歌を歌い、家中を徘徊し、転げ回り、何とか気を紛らわそうと必死でした。
毎日毎日発狂するのは大変な苦痛であったし、布団に入っても眠れやしない。
寝返りを何度も打って、それでも治まらず、窓から飛び出してしまいたいと何度も願った。
実際にアカシジアが自殺を誘発するのではという研究も進んでいるようです。

家から飛び出して道をどんどん進んで、体力が尽きて帰れなくなる所まで 来て、親を電話で呼んで待っている間も、足はどんどん進めたかった。
歩いても歩いても、走っても、俺の思うように足が進んでいないじゃないか、どうすれば良いってんだ、くそ、くそ…

自我が溶けてゆく。
このまま捩じ切ってしまったら、俺は簡単に弾丸のように窓から飛び出してしまうだろう。
そのようなキリキリした気持ちに晒されながら、でもたかが二階から飛び降りたところで死ぬわけでもなし、と言い聞かせて、日々過ごしておりました。
(先述の、家を飛び出したのは、それだけアカシジアの症状がしんどかったからです。)

家に縛られていたし、「女の子はあんまり (特に夜中に)出掛けてはいけません。」 と言われていたし、それから、引きこもるしか出来ないくらい酷い鬱だったのでした。
しかし、同じ症状で夜中にカフェへ行く父親が羨ましくもなりました。
布団に入るしかやることがない(いや、別に普段も特別やることはありませんでしたが)、そんな夜中に出掛けることが出来るなど。

とは言え、では何故ベンゾジアゼピン系の薬を止めないのかと言えば、俺は双極性障害 —病的に気分の良い躁状態と、病的に憂鬱なうつ状態が、本人の意思に関わらず交互に現れる病気— なので抗うつ薬は処方出来なかったのです。

抗うつ薬うつ病の患者さんに処方されますが、双極性障害躁鬱病)の患者さんに処方すると、躁状態が強くなり、本人の回復を妨げてしまいます。
また、当時の俺は薬物治療が必要に迫られるほど、双極性障害の症状が悪化していました。
なので、双極性障害である俺には、抗うつ薬でなく、抗精神病薬が必要だったのです。

ベンゾジアゼピンは、依存性の低い最もポピュラーな抗精神病薬群であり、当時中学生の俺にはこれがベストな処方と思われました。
俺の将来について気を遣う医者の判断は、あのアカシジア地獄を潜り抜けて来た今でさえ、最も良心的であり、間違いではなかったと思います。
他の選択肢が無かったのですから。

しばらくして、双極性障害の波の振り幅が少し小さくなって、薬や療法をどんどん変えて行くうちに、アカシジアは治まりました。
このような切羽詰まった状況を脱し、暫く経った今では、比較的冷静に当時の状況を振り返ることが出来ると思います。
ただ、ここにある情報は、もう7〜8年も前のものでありまして、しかもネットの掲示板などで得た情報でありますので、間違いもあるかもしれません。
もしご自身や周囲の方がアカシジアで悩まれているようでしたら、出来るだけ正確な情報をお調べ下さい。

アカシジアで苦しんでいるのは独りではありません。
また、抗精神病薬は、使用方法を誤ったりすれば怖いものですが、正しく使い、異常が出たらすぐに服用を止め、医者(セカンドオピニオンも含む)に相談するという、他の医療措置と変わらない対応をしていただければ、怖いものではないはずです。

善きメンタルヘルスライフを。
では。

知覚過敏めちゃ痛いって話。


こんにちは!ゼロサンです。

挨拶、本当に「こんにちは」で良いのかなって不安になります。

 

突然ですが、最近歯医者に行ってきたんですよ。

 

生きてきた中で、虫歯なんて一度もない。歯並びを整えないと噛み合わせが…って理由で抜歯した程度。

歯医者に行くのは抵抗なくて、むしろ漫画とか本とかあって、歯を綺麗にしてもらえて、昨年知覚過敏の治療を始める前は、すごく好きな場所でした。

 

でした。

 

 

 

 

い゛ぎだぐね゛え゛え゛え゛え゛え゛よ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!!!

 

めっっっちゃ痛いやんけ!!!

めっっっちゃ痛いやんけ!!!!

 

いやね、知覚過敏がめっちゃひどいんですよ。

どのくらいかっていうと、一時期歯磨きするとき金槌で前歯を殴られるような痛みを感じてたわけですよ。

それが、治療のおかげで全然普通に歯磨きできるようになったんですけどね。

 

でも治療、めちゃ痛いっす。

いや、健常な歯の持ち主には全く造作もないことですよ。

歯に、神経を塞ぐ薬を塗るだけ。

3〜4回行くので、財布にも痛い…(保険効くから二度目からは まあそんなですが)

ですけど、健常な人なら、「何が痛いの?」ってなもんだと思います。

 

これがね…シミるんですわ……。

知覚過敏拗らせすぎてね…。

めっちゃ痛いっすわ もう…。

 

薬塗って貰って3回目くらいの頃には、だいぶ良くなってたんですが、初回めちゃくちゃ痛かった…。

 

歯磨きの仕方が悪い、とのこと。歯茎まで一生懸命磨いてると、神経が露出するらしい。

 

それからはシュミテクトを使っています。

 

シュミテクトめっちゃ効くんですよ。

本当、正しい歯磨きすれば、知覚過敏治るんじゃないかって思うくらい。

 

でもね……。

正しい歯磨きしないと、シュミテクトでも再発するんですね…。

 

ゴリゴリ長時間磨く派なので、今度奥歯の噛み合わせの所が痛いっす。

また病院、通院ですわ…。

 

 

皆も、知覚過敏に気をつけようね!!

 

人と違う生き方で良いのか。


これから、挨拶は「こんにちは」で統一します。

こんにちは。ゼロサンです。

 

ブログを書くにあたって、入りを考えようと思い、毎度1つおバカエピソードを書こうと思ったんですが、あるはずなのに思い出せませんね…おかしいな……

おバカはこういうところで忘れてしまうから、自分がおバカだと自覚できないのやもしれません。

思い出せないけど、あるって自覚しるだけよかった。

 

そんな俺にも、忘れられない、忘れたくないことは、沢山あります。

いじめの加害者だったこと、病気になったこと、そして不登校だったこと、普通とは違う高校に行ったこと、その後の人生の遅れ…

 

あんまり 「普通」と言われる人生じゃないんだと思います。

人間関係で皆と大きなトラブルを起こさず、中学もほとんど毎日行って、入院せず、定期的に病院行ったりもせず、普通の高校に行き、18で高校卒業し、そのまま進む人生。

朝起きて、8:30のST(学校の、朝の会とか帰りの会みたいなやつ)に出て、昼飯食って、15:30のSTに出て、部活するか帰るかして、夜眠る人生。

厳密じゃないけど、大体こんな感じの人生。

人生というか学生生活ですが、俺にとっては学生生活が、ほぼイコールで人生です。

 

「そんな人生、送りたかった」と思うときもあった。

だって一度レールを外れたら、結構生きるの難しかったし、つらかったから。

 

そんでも、

「そうじゃなくても生きていけるんじゃね?」って思ったときもあった。

実際、今でも生きている。

 

「どっちが正しいか」なんて、白黒はつけない。

俺にとっては、どちらも正しいことだからだ。

 

短絡的に、

「レールを外れたら生きるのは難しいんだ!

 だからレールを外れないようにしよう!」

とは言わないで欲しい。

 

短絡的に、

「レールなんて守らなくていいさ!

 生きていけるよ!」

とは言わないで欲しい。

 

人と違う生き方は、多分難しい。

ロールモデルがない。

金が無いと、必要な生活水準を保てないかもしれない。

将来の見通しが立ちづらく、不安を覚えることが多いかもしれない。

 

人より能力が必要かもしれない。

その能力とは、人と似たような生き方、レールに、這い戻って来る能力かもしれないし、レールのない道を歩いて行く為の能力かもしれない。

 

自らレールを外れるという選択肢を選べる人なら違うかもしれないけれど、

レールを外れなければならなかった人達は、ただでさえ生きるのが苦しいのに。

 

世の中はレールの上を行ける人達向けに出来ていて、生きたい人向けに出来ている。

健常者向けに出来ていて、金がある人向けに出来ていて、能力がある人向けに出来ていて…あまり略したくはないが、要するにそういうことなのだ。

だってそれがレールなのだから。

 

関係ない、努力しろ、って人は、強い。

強いか、すごく恵まれている。

そんな人には、 ↓ の言葉を。

 

世 の 中 は、 頑 張 れ る 人 向 け に 出 来 て い る。

 

↑ これで分かんなかったら、このブログは そっ閉じ してください。

 

 

 

 

さあ、でも、頑張らなきゃ生きていけないことがあるのが現実です。

 

現状が死ぬ程つらい人。

病気とか、もう今ちょっと理由は分かってるけど自分にはどうしようもない ってことで、死ぬ程つらい人には、もう俺からは祈るしかないので、祈ります。貴方が死地から帰りますように。

 

そうではなく、忙殺されそうだから死にたいとか、いじめられてるから死にたいという理由なら、緊急性がある場合は、その場からとにかく逃げろ。

「言うのは簡単」とか言ってる場合じゃなくて、早ければ早い程、回復が早くなるから、病気と同じようなもんだと思って、専門機関を巻き込みながらなるべく安全な所へ逃げろ。

遅れたら死ぬ可能性があるぞ。

必要なら弁護士も巻き込め。

貴方が18歳までの子どもなら、各都道府県弁護士会に子ども相談とかのページがあるので、検索してみて欲しい。

たとえば、東京弁護士会だとこんな感じ。↓

○子どもの人権110番|東京弁護士会

https://www.toben.or.jp/bengoshi/center/tel/children.html

↑ みたいな感じで、「子ども 相談 弁護士」とかで調べれば出て来る。

都道府県ってより市町村の名前だろ、というところもあるが、小学校高学年辺りで習う「県庁所在地」の名前なのだ。

自分の住んでいる都道府県の「県庁所在地」は、下のページから確認出来る。

http://elze.tanosii.net/d/kenmei.htm

知っておくと便利。

弁護士会は、「都道府県の名前+弁護士会」か、「県庁所在地の名前+弁護士会」の、どっちかの名前になってるはず。

弁護士会への相談は、自分の住んでいる都道府県の「県庁所在地」の名前で探してもいい。

 

こういう形で、一旦レールから外れても、あんまり問題は起きないと思います。

早めに決断すれば、レールから外れても生きる気力を保てたり、戻ろうと思ったら、早めにレールに戻ることが出来たりするからです。

 

レールから外れる生き方は、悪いことじゃない。

そして、始めるのは、とても簡単です。ただ、一歩踏み出すだけ。

途中までは、そのままいけるかもしれません。

 

でも、どうか、

子ども達の傍にいる人達は、

支援が必要な人の傍にいる人達は、

決して忘れないで。

 

レールから外れて、とても生きるのが難しくなってしまう人達がいることを。

レールから外れることに、不安を抱いている人達がいることを。

その人達の不安は、単純に否定すればいいものではなく、何がしかの現実的な支援を必要としていることを。

単純に否定すると、自分を否定された気がしてしまう人達がいることを。

 

無責任に「大丈夫」と言われることで、傷付く人達がいることを。

 

忘れないで。

頭にだけ置いておいて。

 

俺だって、

悩まずに生きていけるなら、

そのほうが良かったんだから。

学習指導案のコツ掴んだ。

こんにちは! じゃなくてもこんにちは!

教職課程を履修しているゼロサンです。

 

教職課程というのは、大学でのカリキュラムの1つです。

これを修了すると、それぞれの校種(小/中/髙/特支…etc.)などに応じた免許が貰えます。

 

さて、教職課程を履修していると、必ず直面する難題があります。

模擬授業、そして学習指導案です。

 

模擬授業は、大学で教職課程を履修している仲間たちに対して、授業の練習をするというものです。

また、教員採用試験でも、試験内容に模擬授業が含まれる地域があります。

練習とはいえ、授業は子ども達に行うのと同じように、真剣です。

…真剣です(ふざけるタイプ)。

学習指導案とは、国が出している「学習指導要領」に基づいて、どのような授業を行うのかを書くという、「授業の設計書」です。

(模擬授業のときや、教育実習で実際の生徒を前にした研究授業、また教員になってから行う研修授業などなどで書きます。)

 

設計書なので、当然書式が存在します。

地域や科目、下手すると学校や教員によって、かなーーーーーり差がありますが、共通部分も まあまあ あるものです。

 

たとえば。

授業をどのように進めるのかという、授業の展開は必ず書きます。

地域や科目がバレてしまうので詳しい書式を書くのは怖いんですが、まあ大抵は「導入/展開/まとめ」みたいに三部構成にすると思います。

ここを書いているときが、一番イキイキと進められますね。

 

あとは、ほとんどの地域では「生徒所見(生徒観)/ねらい(教材観)/指導上の注意(指導観)」は書く必要があると思います。

「このような生徒なので(生徒観)、このようなねらいを以てこれを使い(教材観)、こうやって指導していく(指導観)」というのを書くやつです。

ここはかなり七面倒臭いところです…。

 

でも、実はそんなことはないんです。

生徒の実態を鑑みて、授業設計を考えていれば。

 

学習指導案は、先程申しました通り、国の学習指導要領に準じます。

なので、観点なども、ほとんど学習指導要領に書いてあるところを引用するのが常識です。

 

要は、学習指導要領からパクってくればほぼ正解なんです。丸パクリだと全然使えないところもありますが、ある程度ならそうすべきです。

 

んで、コツというのは、ここからです。

 

生徒観、難しくないですか?

生徒観は、生徒の実態を観察して書く部分です。それを元に、どのような授業設計をしていくのか、決めていきます。

但し、気を付けないと、「本学級の生徒は、聞き分けがなく、自由奔放で…」などと悪口を書きたい気持ちを抑え切れなくなってしまいます。

(或いは、褒めてしまったりとか…)

だって、それ封じられたら、指導案シロートには、何書いていいか分かんないですよ。

 

そこで出て来るのが、学習指導要領!

指導要領をよく読めば、生徒観もバッチリです。

 

学習指導要領は、主に以下の観点で書かれます。

・関心,意欲,態度

・知識,理解

・技能,表現

・思考,判断

そう、通知表にも書かれることがある、かの有名な4つの観点です。

 

皆さん、好きな科目の指導要領を開いてみてください。文科省のホームページから飛べます。

そこの領域(日本史Aとか)毎の「内容の取り扱い」を見てみましょう。

四角い枠の中、目標の部分を読むと、その答えが出て来ます。

(「教科の目標」ではないです)

 

そこには、教科によって表現が違いますが、4つの観点を元にした文が書かれているはずです。

語尾が「〜を理解させる(理解する)」なら、「知識・理解」の範囲です。

「〜を考察させる(考察する)」なら「思考・判断」、「〜を探究させる」なら「関心・意欲・態度」にも近いものだと思います。

また、「〜を書くこと」と出て来る科目もあります。こちらになると、「技能・表現」の範囲です。

 

これを生徒観に反映させると、

「本学級の生徒は、Aという単元についての関心が高く、小学校での学習で【学習指導要領から抜き出した範囲】の理解が進んでおり、【学習指導要領から抜き出した範囲】のようなことを考察することが出来る。しかし、発言にやや消極的なため、【学習指導要領から抜き出した範囲】について充分に表現出来るとは言いがたい。」

の、ように表現することが出来るんです!

 

これは悪口を書かずに、生徒の強みと弱みを的確に表現する方法として,一番簡単なものだと思います。

弱みがあっても、次の教材観や指導観で、

「だからこういう授業を行って、弱みを解消する」という風に繋げればいいのです。

指導案に迷っていたら、是非やってみてください!

馬鹿だって、人権がある。


こんにちは。こんにちは以外の人も こんにちは(ごめんなさい)。

ゼロサンです。

 

突然ですが。

俺は周囲の方々に比べてかなり馬鹿です。

 

中学はほとんど行ってないし、高校は偏差値が低かったし、大学も推薦でギリギリでした。

なので、中学生レベルの勉強も結構分からないです。

 

おまけに、状況判断がかなり苦手です。

いつも仕事の出来る人に色々任せてしまっています。

 

勘違いも多いです。

先日も、スピーチに対する講評をする場面で、「次はお前の番だ。立って喋れ。」と言われ、てっきり自分が、次のスピーチに選ばれたのだと思って、そのあと大恥をかきました。

(※行われた、他の人のスピーチの、講評をするだけでした。)

 

あと、かなり、鈍臭いです。

車で山道を走るのが好きなのですが、一辺、雨が降る中、山を下っていたら、ハイドロプレーニング現象でドリフトしました。対向車のトラックまで、5mないくらい。免許を取ってまだ半年程度でしたが、死ぬかと思いました。

(逆に鈍臭くないのでは?)

 

加えて、忘れっぽいです。

メモ魔だった頃は、普通に記憶出来ていたんですが、今は、つい先程聞いて忘れぬよう復唱していた「バスター・キートン」の名前が、1文字も出て来ず、「何か伸ばす棒が付いてて(バスタ「ー」)、下はカキクケコのどれか」くらいしか、出てきませんでした。

 

どれほどの馬鹿か、お分かりいただけましたか?

 

この世界では多分、馬鹿だと生き残れません。生き残れたとしても、俺のようにかなり危険な綱渡りです。

 

で、コレを読んで、ちょっとクスクス笑っていただけている程度なら、有り難いんですけど。

(少しだけ、笑いを狙ったので)

「あ、自分、笑えねえな。」

って人も、いると思うんですよ。

 

もし貴方が、日常生活の中で、

「お前は馬鹿だ、阿保だ!」

と、罵られ、苦しい思いをしている中で、このブログを読んだら、怒りが湧くでしょう。

「何で、こんなに馬鹿みたいなヤツなのに、自分と違って普通に暮らしているんだ!」

と。

 

もしくは、貴方が、何らかの理由で、自分のことを馬鹿だと思っていて、そのことに強いコンプレックスを抱いていたら,

「その程度で何が馬鹿だってんだ?ふざけるな!」

と、思うかもしれません。

 

それは、コンプレックスによる強い認知のゆがみな気はしますが。

事実、俺は本当にかなりの馬鹿ですし、上で書いた俺の話は、ごく一部の例、というだけです。

俺は、この馬鹿さで、人にとても迷惑もかけているので。

 

そんでも、許してもらっています。

それは、周りの人が優しいからではありません。

いえ、正確には、「『周りの人が優しいから』で、許されるべきではありません。」

 

もちろん、誰かを傷付けたり、損害を与えてしまったり、外部の方にご迷惑をおかけしたり、その他すべきでないことをしてしまったりしたときには、きちんと、お叱りをいただきます。

そうでなければなりません。

 

そして同時に、信頼を失うことも多々ありました。

そのときは、本当に苦しかった。

 

でも、許しては貰えます。

所詮大学生、というのもありますが、取り返しのつかないことでない限り、「次は、頑張ろう。」と、励ましていただけます。

俺より賢い方達は、俺の扱いを、よく分かっているし、起きたことをグジグジと責めても、関係性が悪くなるだけで、状況改善には向かわないことも、しっかりと考えてあるのです。

 

まあ、もちろん、性格も優しいです。

普通に性格が良い以外にも、能力があって賢ければ、余計な悩みを増やさない為に、優しい態度を取るのは、必然とも言えます。

 

でも、それだけじゃないんです。

許すということを、皆さんがどのように捉えたか、に、依るんですが、

少なくとも、人格否定や、自由の拘束や、そういったことは、行われていないということです。

馬鹿だと笑われたり、クズだと罵られたり、いじめのようなことをされたり、不当なペナルティを与えられたり、そういったことは、特にありません。

 

何故なら、皆知っているからです。

馬鹿だって、人権があるということを。

 

学歴で、笑われたりなんかしません。

勉強が出来なくても、皆、教えてくれます。

ちょっと、中高の復習をしているのですが。「この程度分からないの?」と、言われることは、一切ありません。

 

そして例えば。

俺は病気の人間です。

でも、障害者とか、病気人間ということで、差別されません。

 

俺は、女っぽくありません。

でも、「オトコオンナ!」と、笑われることもありません。

 

それは、皆が優しいからだけではなく、それが、「人権がある」という状態で、当たり前のことだからです。

 

貴方には、人権があります。

そして、

馬鹿だって、学歴なかったって、病気だって、障害だって、既存の性別っぽくなかったって、ダサかったって、不細工だって、

子どもだって、太っていたって、小さすぎたって、デカすぎたって、人種や民族が違ったって、

皆、人権があるのです。

(もちろん、犯罪者にも。)

 

自衛するということは。


こんにちは、みたいな挨拶を、すべての皆さんに向けて言えるといいのだけれど。

ゼロサンです。

 

よく性犯罪に遭った女性に、「自衛しろ」という人がいます。

「そんな格好で出歩いていたから。」

「危ない夜道を歩いていたから。」

「お酒を飲んだら、もしくは一緒に飯を食ったら、セックスしていいってことだろ。」

最後のは、レイプの常套手段として昨今非常に問題となっていますね。

ひと昔前は、口説きやナンパの手法として、よく使われていたメソッドでした。

(その頃のナンパ方法は興味があって見ていましたが、「飯食ったら合意だからヤっていい」という手法ではなく、「飯を同意してもらえたら次はホテルに誘ってみれば高確率でオーケーになる」っていうヤツだったと思います。)

 

俺としてみれば、

じゃあ、金持ちみたいな綺麗めファッションしてるヤツは、隙があったらスってもいいんだな?

仕事に疲れて、夜道を歩いてるヤツは、鞄ひったくってもいいんだな?

仲良くなって、一緒に酒飲んだら、財布貰ってっても、それは心を許したのが悪いんだな?

って、感じです。

 

そんなわけねえだろうが。

 

性犯罪っつーのは、物理的にモノが減らなくても、その後の人生に響くんだよ。

そりゃもう、性別問わず、だ。

 

痛い思いも怖い思いもするんだよ。

意味も分からず痛い思いをさせられたら、脅されたら、しかもそれが自分にとって逆らえない相手だったら、怖いし、人を信用できなくなるだろ。

 

自衛を強いるな!

自衛は、個人の自由だ。

自衛は、

怖いときは出来るように、

でもしなくてもいいように、

しなかった人を責めないように、

っていうモノだろうが。

 

と、個人的には思うわけです。

 

ただ、逆に言えるのは、

自衛は、何かが怖いと思うときは、出来るようにしておかなければならない、ということ。

自衛は自由だ、ということ。

 

俺が女性用トイレに入るときに思うのは、

「男女別トイレなのに,怖い思いをさせてしまうかもしれない。」

ということです。

男女別トイレは、本来、女性にとって安心できる空間なのです。

今だって、女性の盗撮写真がネットで大量に出回る中、怖い思いをしている人はいるでしょう。

男女共用しかない世の中になったら、より盗撮がしやすくなってしまう。

盗撮は確かに盗撮犯が悪いけれど、そういうことを想定して、「怖い!」と感じてしまう女性がいる。

(同性による盗撮もあるかもだけど)

 

だから、俺のような人間が

「トイレなんて全部男女共用にしちまえばいい!」

なんて言えないわけです。

それは俺によって怖い思いをしている人にとっては、何の解決にもならない。

俺的には、男女別トイレとは別で All Gender トイレがあるといいかなあ、なんて思うわけです。

男女別トイレに多目的トイレを1つ置いてもらってね。

予算やスペースの都合上、難しいかもしれないけれど。

 

まあそんな感じで。

自衛の基本は、

⑴ したいときに出来る。

⑵ しなくともよい。

⑶ しなかった人を責めない。

の、3点だと思います。

 

それでは。お疲れ様でした。