zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

喪失感

 

 こんにちは、ゼロサンです。

 

 あいぴーの活動停止が発表されてから、1日経ちました。

 周りの人たちも、おかしくなったり、明るく振る舞ったりと、それぞれに胸のうちを明かしています。あの人大丈夫だろうか、どうなるんだろうかと思う人もいれば、Creatersらぶぴえんということで、企画が始動していたり。1日の間で起きたこととは思えないほど、激動の状況でした。

 

 私はといえば、Creatersらぶぴえんの方々とともに企画に参加させていただいています。元々イラストを描く予定だったのを昨夜描き上げまして、また、書きかけのSSがあったので、それを完成させたい所存です。

 ディスコードのサーバで企画の方が進められていますが、昼夜活発で、ずっと通知が鳴りっぱなしです。みんなすごいなぁ、と、ぼんやり眺めながら、今日1日を過ごしておりました。

 そう、昨夜イラストを描き上げたのち、私は今日1日をぼんやりと過ごしておりました。昨日の夕方に発表を見て、そのときも、やっぱり少しぼんやりしてしまって、悲しいとか、そういう感情が抜け落ちてしまったような気持ちになっていました。

 ツイキャスでも、心無い言葉を言ってしまったと反省しています。混乱の中、言葉が選べない状況なら、人がいる場所で言葉にする必要なんてなかったのに。

 

 元々私は、人が死んでも泣かないほど薄情な人間です。推しのVが辞めるとなったときにも、よほどの事情がない限りは、「そうなのか」と思って過ごしていました。だから今回もその手の心の動きをしていくだろう、と思い、少々の混乱も、あまり気にしないようにしていました。

 

 しかし何だか、今日は慌ただしいような気持ちでいました。誰かと一緒にいたい。だからツイキャスをする。配信を観に行く。あれもこれもやりたい、でも気持ちが空回りする。もがくほど息苦しくなって、這い回るようなこの感情を、なんと呼ぶのだろう。

 そういえば最近、語彙力が落ちたなぁ。広辞苑でも読まなきゃ。なんて気持ちなんだろう、これは。私の言葉では説明できない。ふわふわとしている。

 たぶん、寝不足が続いて、調子が悪いんだろうな、と思って、寝落ち用に推しの配信を聴きながら、布団に横になるけど、なんてことないはずなのに、心が溢れて苦しい。

 こんなにダメ人間だったっけなぁ。私、最近本当にダメだな。たぶんこれも、甘えたな性格が表に出てきただけなんだ。

 そう思って、眠りにつこうとしました。だって今まで、何かを失って、悲しかったことなんてなかったからです。

 

 でも、違う。

 たとえば、縁起でもない例えですが、家族が亡くなったときも、悲しくなんてなくて、泣かなかった。けれど、ずっと心にあるモヤモヤは晴れず、おかしな浮遊感、非現実感、焦燥感に悩まされて、どうしようと途方に暮れていた。それは推しが辞めてしまったときも、好きな漫画が終わってしまったときも同じ。去るものは追わず、それでもなかったことにはならない。

 

 そこにあったはずのものがなくなって、「心にぽっかりと穴が空いたように」なる。そんな慣用表現が使われるこの気持ちを、きっと「喪失感」と言うのでしょう。

 

 私は、何かを失くしてしまった人に、必ずかける言葉があります。

「充分に想ってあげてください」

 喪失感とは、「これから」を失ったときの気持ち。だからこそ、「これまで」を充分に想って、思い返して、「こんなに大事だったんだ」と充実した気持ちに満たされるまで、何度も何度も自分の中で咀嚼して、大事な存在を心の中で思い描く。今生の別れでなければ、いつか戻ってくると信じて、「あなたを失くしても、私は決してこの気持ちを失わない」と決めるまで、何度も泣いて、想う。

 

 これは当初、「私には別れを惜しむ感情はないからこそ、せめて他の人にはその存在を想ってほしい」という気持ちから伝えていた言葉でしたが、今自分自身で噛み締めています。

 

 ようやくこの時間になって、配信も全部切って、ひとりの時間になって、こうして言葉に出来た気がします。

 明日からはまた、少し元気な私になります。

 

 それでは。

#おめシスはいいぞ と久々に叫ぶだけの記事

 こんにちは、ゼロサンです。お久しぶりです。

 誕生日というただの平日を越えたので、半生を振り返る記事でも書こうかと思いました。しかし、久々にブログ熱に火がついたのは、なんとおめシスの話。何故でしょう、おめシスって、無性に言語化したくなりますね。


 早速ですが、キズナーやらぶぴえんのフォロワーさん方も増えてきたので、おめがシスターズさんの簡単な略歴から振り返っていきます。ちなみに、似たような構成の1万字越え記事を1年半前に書いておりますので、よろしければそちらもどうぞ↓


バーチャル双子YouTuber「おめがシスターズ」とは

 姉(赤い方)の「おめがレイ」、妹(青い方)の「おめがリオ」という2人姉妹で活動している、いわゆる個人勢のバーチャルYouTuber。活動の主な内容は、VR、ドッキリ、検証、歌、ゲーム実況(アナログ・デジタルともに)、ガンダム遊戯王ポケモンYouTube機能の紹介など多岐にわたる。


略歴

Twitterでは2018年3月4日、YouTubeでは同年3月5日より活動開始

・ 2018年6月より、バーチャルタレントを支援するプロジェクト「upd8」に所属

・ 同年7月3日より収益化

・ 同年9月21日、提供音源側の不備により歌動画の一部削除

・ 同年10月より、『のばん組』にて「バーチャルYouTuberを紹介するのコーナー」MC担当。尚、『てぇてぇTV』に変更後も継続

・ 同年11月5日、"VRの父" パルマー・ラッキーより生放送内で誕生日メッセージ

・ 同年12月31日、チャンネル登録者数10万人突破

・ 2019年2月より、YouTubeコントリビュータ就任

・ 同年3月、オリジナルソング『シンクロニティ』発表、販売開始

・ 同年4月、ニコニコ超会議出演

・ 同年8月12日より、サブチャンネル「あるふぁブラザーズ」開設

・ 同年8月24日、バーチャル音楽フェス『Vサマ』出演

・ 同年10月10日、個人勢3組によるミーティング&グッズ販売イベント「バーチャルスクランブル」開催 〜10月27日

・ 同年10月17日〜18日、YouTubeコントリビュータサミットに参加(イギリス、ロンドン)

・ 2020年12月〜1月より、プルリクだけでホームページ作成、開設

・ 同年3月29日、チャンネル登録者数20万人突破

・ 同年7月、GitHub Archive Programに選ばれ、北極の永久凍土にておめシスHPの一部データが1000年保管されることが決定

→to be contenued…


 さて、略歴はこのくらいにして、そろそろ本編を綴っていきます。


 おめシスはいいぞ。


変わらずにそこにいてくれるということ


 色々と書こうと考えていたのですが、どうやってもこの項にまとまってしまうので、ひっくるめて書くことにしました。


 おめシスは、略歴に書いた通り、YouTubeコンソメスー…… コントリビュータです。コントリビュータとは「貢献者」の意味で、YouTube本社の協力者として、直々に選ばれた人たちとなります。具体的な活動としては、YouTubeヘルプフォーラムで質問に回答する、クリエイターにYouTubeの活用方法を紹介する動画を制作するなどになります。

 派手なところでいえば、ロンドンの本社に飛んでサミットに参加したこともありました。ファンのみんなも、「推しがデキる女すぎる」とドン引きするくらい誇りに思ったわけです。でも、だからといって、ロンドン遠征中も動画を投稿する頻度が落ちたわけではありませんし、ファンに対する態度が変わったわけでもありませんでした。「恐らく時差ボケで寝てるだろうな」ということはありましたが、起きてからツイートしてくれたり、リプライを返してくれたり、エゴサをしていたりと、なるべく普段と変わらないようにいてくれました。

 コントリビュータとしても日々の仕事を取ってみても、YouTubeでの普通のおもしろ動画や、自分たちの独自企画などと変わらないノリで、YouTubeの機能や仕様変更を紹介してくれています。


 GitHubのプロジェクトへ参加した際にも、おめシスのホームページの一部データが1000年残ることになりました。こんなに誇らしいことも、動画では、いつものようにしっかりと紹介してくれています。本当に、とってもすごいことなのに。


 仕事や案件絡みの諸々がたくさん増えてきているはずの今、それでも投稿頻度は上がり続けて、ストーリーを含めればほとんど毎日動画を投稿してくれています。それでも企画の質は落ちず、いつでも奇想天外なことをしてくれる。ComicVketの案内役になったり、シリーズもののボードゲームとコラボしたり、3Dモデルを分かりやすく説明するために「中の人」を登場させたり、他の誰にも真似できないモーニングルーティンを投稿したり。

 動画制作に関わる技量や、みんなのニーズを拾う力も上がり続け、期待を超えてきてくれる。「歌動画では勝負できない」といったことを言っていたけれども、他のどんな動画も手を抜かないように、歌だって挑戦し続けて、「そんな歌い方出来たのか!」と思わせるほどに進化し続けてくれる。だからワクワクするんです。目が離せない。いつでもウキウキして、"おめがってる"。


 ずっとずっと攻め続けて、変わり続けていく2人ですが、ファンへの態度も、クリエイターとしての基本的な意識も、変わらずにそこにいてくれます。それって実は本当にすごいことだと思うんです。きっと1年前とは比較にならないほど忙しいだろうに、それでもみんなのことを見ていてくれている。次の楽しいことはなんだろう、って思わせてくれる。


 改めて、みんなが出来るわけではないことをしてくれていて、だから、大好きでいられるんだなと、そう思いました。という、お話でした。

 

 おめシスはいいぞ。


 それでは。


参考動画

 

 

GitHub Archive Program

しんどさを言語化する。

 こんにちは、ゼロサンです。

 今日は、自分のしんどさを言語化しようと思い、ブログを書いていきます。

 

 昨日までの間に、私は仕事でたくさんのミスをしていました。毎度落ち込み、自分のどうしようも出来なさに弱っていくのを感じました。

 ‪なぜミスをしてしまうのかは、ある程度は分かっています。一朝一夕には解決できない問題であることも、地道にやっていくしかないことも。

 それでも落ち込んでしまうことが、あまりにしんどかった。だから今日はこの数ヶ月、なぜ自分のメンタルがなかなか回復しないのかについて考えていました。

 

 大きくは、人から信頼されないことと、人からコロコロ違う態度を取られることによる、他者への不信感の強さのせいだと思います。特定他者への不信感が、無関係なすべての他者、及び自分に対して影響していました。

 本当はどのように思われているのか。自分はどうすればいいのか。また同じミスをしてしまったことに、この人は不信感を抱いている。私も私が信用できない。だから誰の言葉も、心にストンと入ってこない。

 

‪ それが表に出ていたどうかに関わらず、嫌な態度であったし、不誠実だったと反省しています。また、自分の行動が上手くいかないことに対する無力感、自信の喪失が積み重なって、だんだん自分を表現しようという気持ちも弱っていってしまいました。誰かが好きだとか、誰かに感謝しているとか、そんなことより、もっと自分をどうにかする術を考えろよ、となっていました。自分が楽しい思いをすることに対しても、気後れが出ていたように思います。

 

‪ 他者に対する興味を失ってしまっていたという自覚もありますが、これも誰かのせいではなく、紛れもなく自分の心が弱っていたせいだと感じています。自分でもどうしてなのか分からず、ただ心が動かないことが苦しくて、「誰かを好きでいたい」「興味を持っていたい」という気持ちにすがっていました。だってみんなそれぞれに良いところがあって、素晴らしい人なのですから。

 

‪ みんながすごい人だとわかっていても、それを感じられないことに焦っていたし、腹が立ってもいました。恐らく自分がままならないストレスに耐えかねて、感情の動きをセーブしようというメンタルの働きをしていたのだと思います。心が動かなくて、非常に悔しかったです。

 

 メンタルの病気から復活したときの知恵を、ここで使うことはできないのか? という疑問が湧いて、色々思い出そうとしてみました。昨日までは難しかったのですが、今日は応急処置的に、そうした考えを使ってみることが出来そうです。

 

 酷いミスをした自分への反省が重荷になって、次の行動に移せないということは、とてもバカらしいことです。ミスが酷いので、「そんなこと」と言い飛ばすことは問題がありますし、忘れよう、気にしないで、なんてことも無理です。ただ、重荷になっているせいで動き出せず、次に活かせないなら、気にしない努力をしていくべきです。

 上司から叱られ、他人からの慰めも受け入れられないなら、自分で自分の心をあやして機嫌を取る術を身に付けるべきです。ストレスが行動や結果を悪化させては、元も子もありません。

 受け入れて、次はミスしないようにしようと思うために、はたから目に見えない範囲であれば、手段を選んではいられません。立ち直るしかないのです。

 

 他人からのお叱りが的を得ておらず、「そんな風に思われてたんだ……」と思ったとしたら、その人が人を見る目がなかっただけ。もちろん「そんな風に思われてしまうこと」が問題だとしたら、立ち居振る舞いを直すべきではありますが、そうでなければ「そっかぁ」で流せばいいことです。

 

 真正面から受け止めるから重荷になってしまうだけで、取捨選択をしていい。お叱りを受けたら、やるべきことだけ考えて、自分に必要のある叱咤激励は自分でして、自分に必要のないことは「そっか」で一蹴して構わない。そういう心がけも大事。

 

 ……という形で、自分に言い聞かせておきます。

 

 上司や該当する方にはたくさん気を遣っていただきましたし、イライラしたのを抑えて説いてくださったんだなというのも理解しています。

 本当にありがたいことです。だからこそ、応えたい。そして自分の心を豊かにすることで、出来ることを増やしたい。

 

 そんなことを思いながら、また日曜日が過ぎていくのでした。

 

 それでは。

「コミュニケーション」は、常に誰かを排除する。

 こんにちは、ゼロサンです。お久しぶりです。

 今回は、特に脈絡もなく思い付いたお話です。いわゆる、雑記。

 夜中にふらふらと思い付いたことなので、適当に読んでいただけたら幸いです。


‪ 私は普段から、言葉を大切にしたいと思っています。精選された言葉は大好きですし、適当に放たれた言葉に対しては、面白いと思っても、傷付いているときもあります。例え私に対する言葉ではなくとも。

 面白くても、傷付くことってあるじゃないですか。リズムネタに人を罵倒する言葉が乗っていたら、リズムは面白くてハマってしまうけれど、言葉自体は嫌だ、とか。人を差別する言葉に、「面白くない」「つまらない」と反論している人がいるけれど、別に面白くてもいいと思います。「傷付いている人がいるのに、面白がるのか」というのも、問題の筋が違う。面白かろうがつまらなかろうが、人を傷付ける言葉を選んだことが問題なのです。


 言葉を大切にしたいのは、言葉というものはどうにも不便で、必ず誰かを排除してしまうし、受け手側のコミュニケーションコストが高いものだからです。だからこそ、「自分は一体その言葉で誰を踏んでいるのか」に気付ける。誤魔化しが効かない。その寂しさに気付かなきゃ、と思うのです。


‪ 言葉とは、その言語を理解出来ない人を排除するし、その文脈にそぐわない人や、入れない人を排除します。他の表現もきっとそうだけど、日常的に使う「言葉」にこそ、意識しない場面で、誰かを排除してしまう自分が表に出てしまう。

 ‪「言葉」は曖昧で不確かだけれど、同時に物事を定義してしまう。だから私は「言葉」の相反する性質が好きで、同時に怖いなと感じています。身体から離れた表現によって、別の次元に世界を立ち上げ、本質を共有することが出来る。と共に、意図せず人を傷付け、定義から除外し、排除します。

 「女なら」「社会人だから」「大人なのに」「60歳になったので」「じゃあ○○じゃないってことなんですか」「喋れないの?」「音楽では」「界隈には」「バカ」「アホ」「障害を乗り越えて」

 意図せず、人を排除して、寂しい思いをさせてしまう性質が、言葉にはあります。


 ある時、私は職場の子どもに対して、「あなたは喋れるでしょう」と言ったことがあります。この時の自分の発言がショックで、今でも忘れられません。

 「あなた "は" 喋れるでしょう」。喋れるなら言いたいことを言いなさい、という意味で放った言葉ですが、喋れない他児の気持ちを、すっかり意識していない言葉でした。"は" という助詞は、自と他、そのものと別のもの、というように、人や物を切り分ける効果があります。切り分けられた人たちのことを、私はこの時、考えていなかった。完全に、失言でした。


‪ 今でこそ、絵や歌に感想をつけることが出来る私ですが、ほんのこの前までは、言葉以外の表現から、文脈を汲み取ることは不可能でした。文脈が汲み取れないことが、文脈からの排除と言えるのであれば、よく分からないまま美術館や映画館で過ごす寂しさは、私にとって「排除される寂しさ」でした。

‪ 絵や歌の勉強をして、解説を読んで、ようやく人と同じくらいには、「その絵や歌がどういう性質を持つものだから、自分の感情がどのように動いたのか(可愛いのか、格好いいのか、どこに感動したのか)」を説明出来るようになりました。私にとって、絵や歌と自分の感情を結びつけるものは、言葉でした。

 そうしてようやく、言外の意味を汲み取ったり、「言葉を大切にする人ほど、『言葉にしなかったこと』に本当のことが隠れているんだ」と気付いたりが、出来るようになりました。「言えることが知性、言わないことが品性」とは、よく言ったものです。


 ‪「排除される」というと、被害者ヅラと言われてしまいますが、どんな表現も、きっと誰かを排除してしまっていて、多くの場合はそれに気付かないのだと思います。だから、一番身近で、一番私の大好きな「言葉」でこそ、それを意識していたいと思うのです。


 今日はこんなところで、終わります。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 それでは。

おめシス『砂の惑星』感想

 こんにちは、ゼロサンです。

 今回は、先日おめシスさんが上げた『砂の惑星』 の歌ってみたについて、想いが溢れてしまいましたので、簡単に記事にしていきたいと思います。

 

 

※この文章は、曲を聴きながら勢いで書いているため、脈絡のない場面があるかもしれません。洗練されていない、散文、乱文です。

 

サムネ

 サムネの時点で、すごく好きです。何なんですかその、まっすぐ見つめる、朴訥でまっすぐな瞳は。そういう原曲リスペクトをされるとオタクは死ぬ。地味に、手前の砂埃も原曲のサムネと同じ形をしていて、芸が細かいな、とも感じました。砂漠の中にたたずんで風になびく髪が美しい。リオちゃんのツインテがなびくのは動画中でもよく見ますが、今回のサムネの髪はまた違った良さがあります。レイちゃんのショートボブがなびくのも良い。『白日』から変わった見た目のテクスチャが、 砂漠でのライティングとよく合っていて、サムネ全体で見てもクオリティが高く、「動画の顔」 としての役割を凛と果たしており、動画に対する意識の高さをここでも見せつけられました。

 

選曲

 二人で歌うことで、リオちゃんの長所としての低音が生きる上、普段聴くことのない貴重なレイちゃんの低音を聴くことが出来るという点でも最高です。二人とも、音域の化け物。「これまで歌ってきたボカロに戻ってきた」 という考え方もできるし、それでもパワーアップしたうえで、また何か違う趣向を凝らそうとしている様を見ることが出来て、ワクワクが止まりません。何故、今、『砂の惑星』なのか。これだけ多くの解釈幅を見せるハチさんのこの曲を、なぜ歌うのか。我々は、おめシスの掌の上で転がされているのではないか? とすら思います。「心残り、残さないように」。

 

MV

 最初、見たことないくらいダルそうな(?)雰囲気からの「わーお」のレイちゃんかわいすぎないですか。二回連続でやるな。あと、途中、二人で同じことをしているシーンなのに動きに違いがあるの好きすぎる。揺れるレイちゃん、 やはり二人で横並びで歌っていたときの横揺れの名残を感じられて とても好きになる(既に好き)。「この井戸が枯れる前に早く~」 のリオちゃん、普段を知っていても尚伝わってくる歌詞通りの想い。女優・ おめがリオ、顔の造形もよければそれを生かす術も完璧すぎる。と思えば基本的な動きはいつも知ってる「リオちゃん」なんだよなぁ。死を匂わせるモチーフを散りばめた中での写真はエモい。その宇宙船みたいなやつ、モンスターボールみたいにパカッて開くんだと思ったら何でサザエさんのアレみたいに真っ二つに割れて開くんですか。何でリンゴの木っつってるのにリンゴの木植えないの???? 「ハッピーバースデイ」なのに死んでしまったレイちゃんで、生前葬を思わせるような表現もあり、何か意味があるのかとも思っています。てかなんでレイちゃん死んでんの。ああ、泣いたったのリオちゃん……。可愛いねぇ……。「あっち行け、飛んで行っちまえ」みたいな動きも可愛いなぁ。最初レイちゃん一人だったのが、最後はリオちゃん一人で終わるのには、どんな意味があるんだろうか。色々、考察班が捗りそうなMVでした。

 

歌声

 まずはリオちゃん。コーラス頑張ってるのがめちゃくちゃ好きです。「立ち入り禁止の札で満ちた」の「ふだぁぁで満ちた」のところ、一瞬の溜めからの瞬発的ビブラートが歌としての芸術点が高すぎて心が波打ちます。そして「ラップのセンスがある」と言われただけあって、こうしたリズム感が難しくも気持ちいい曲が最高に似合う。そんなテンポの良い曲でも崩れない、圧倒的安定感のある色っぽい歌声。それから、「思い出は電子音」の「電子音」できちんと加工しているところ、これまでのおめシスにはなかった表現でゾワッと鳥肌立ちました。また新たな技を取り入れてくるなんて、どこまで進化すれば気が済むんだ。

 レイちゃんも、コーラスひとつ取っても可愛すぎる。「わーお」じゃないんですね。何でオケじゃないのそこ。曲歌ってる最中に何度も出て来るの胸が苦しいんですが。「天空の城まで僕らを導いてくれ」のレイちゃんの「僕らを」 のお姉ちゃん感やばない? 分かれ? 「導いてくれ」の「導いてくれ~ぇ」の若干の伸びと抜けもすごい好き。「後は誰かが勝手にどうぞ」 も「勝手にどうぞぉ」って感じで抜け感があって可愛いです。

 レイちゃんの低音、こんなに艶っぽいのをきちんと聴いてしまうと、より好きになってしまいますね。このくらいの低音なら、今までの歌動画でも聴いたことがあったけれど、強く伸びのある歌声が特徴のレイちゃんが一貫して重みを伴って歌いこなすのを聴くと、これまでの努力の積み上げと挑戦に思いを馳せてしまいます。「一瞬リオちゃんかと思った」との感想もあり、確かにおめシスに関して、低音パートはリオちゃんの専売特許であると思われがちで、しかも双子なので、かつて視聴者も声の件でドッキリを仕掛けられてしまったほど声が似ていますが、リオちゃんは優しさと深みを兼ね備えた「お姉さん」なのに対して、レイちゃんは可愛さをプラスした「お姉ちゃん」な声だな、という微妙なニュアンスの違いがあります。オタク的なキ(キモいのキ)な語彙でしか表現できないのは申し訳なく思いつつ。そして、これまでの二人の道のりや努力、性格や個性の違いを表したような歌声の些細な違いに、キモ・ オタクとしては勝手に物語を見いだしてエモを感じてしまいます。前回がハーモニーに優れた『点描の唄』だったのも手伝って、二人が交代で滔々と歌うことがこんなに新たな気づきがあるのか、と感銘を受けました。音程、リズム感、発音、歌声への挑戦は尽きず、歌以外のそれぞれの動画にも手を抜かないでいるように、伸びないとか、金銭的にも数字が出ないとか本人たちが認識してしまっているやも知れない歌動画にすらディティールを追及する姿勢は、ただ単に数字の中で上を目指す「プロ」とは違うプロフェッショナルな二人の想いを感じられて、本当に大好きだという気持ちになります。頑張る二人の軌跡一つ一つに、勇気をもらえることが嬉しくてなりません。だからこそ、なるべく楽しんで、気持ちよく活動してほしい、と祈っているし、これ以上二人の足かせにはなりたくないと心から願っています。

 

余談

 余談なのですが、ひとつ、思ったことがあります。歌動画の選曲は、リオちゃんがしているのではないか、と。リオちゃんは物を作るとき、ストーリー性を持たせがちです。Blocksを使った動画でもそれは見られます。なので、実は歌ってみたの選曲はリオちゃんが行なっていて、実は何らかのストーリー性やメッセージ性があるのではないか、と若干勘ぐっています。リオちゃんなら青春系アニメ映画も観そうだし、ボカロが好きだし、楽曲解釈とか案外好きそうかもしれない。そして、人の想いを深く汲み取るリオちゃんなら、ファンに対して何か伝えたいことがあるだろう、と。まぁ、これは「そうだったら面白そう」というただの全くの妄想ではありますし、ただ勢いと深夜テンションでやっていても、ある意味ではおめシスらしくて、すごく好きではあるのですが。創作物に謎のストーリー性を持たせるのは、レイちゃんについてはあまり見られない傾向かと思いつつ、実はレイちゃんも『シンクロニティ』のバヤなMVを作っているので、MVのカオスさはレイちゃんなのかな、とも思ったり。

 

 いろんなことを考えて、いろんなことを想って。やっぱりおめシスが好きで、おめシスはいいぞ、という気持ちで落ち着きました。そんなところで、頭の取っ散らかった記事ではありますが、〆たいと思います。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 それでは。

「許す」ということ、「認める」ということ。

 こんにちは、お久しぶりです。ゼロサンです。

 今回は、昨日したツイートにリプライを頂いてから考えたことを、それまで私の身に起きていたことと共に整理しながら、記事にします。

 整理しながらとはいえ、まだ生まれたての考えなので、多少の乱文は御容赦ください。

 

記事にしようと思い立ったワケ

 まずは該当ツイートをば。

 

 このツイートに、何人かの人がリプライをくださいました。

 そこから丸1日考えて、いくつか気付いた点がありましたので、こうして記事にしようと、先程思い立ちました。

 

初めての「許せない」こと

 正確には、"初めて" ではないのですが、許せなくて困ってしまったのは、初めてでした。

 

 まずは、これは「"私の視点から見た" 出来事の一部」である、ということを御理解ください。傷付く、傷付けるという関係には、視点の違いによる解釈の相違がほぼ確実に起こるので。

 告発をしたいわけではないため、手短に書いていきたいという願望があります。ただの願望です。長かったら、次の太字まで読み飛ばしてください。

 

 発端は、とある人と、キズナアイちゃんに対する推し解釈の不一致が起きたことでした。お相手が住み分けを強く拒絶したため、私も住み分けずにお相手とのオタク関係を続けており、結果お互いに痛手を負った形となりました。

 推し解釈の不一致でバトルになる、ということなら良かったのですが、私は実は、お相手の推し解釈については全く否定的な気持ちにはなりませんでした。むしろ私は、気持ちの上ではお相手側に近い立場であったように思います。

 そして私も私で、アイちゃんに対して感情的な部分で割り切れないながら、アイちゃんの今の立場を応援したい、という矛盾を内包した推し事の仕方をしたことで、強めの暴走をしてしまいました。そこがお相手の気に障ったのだと思います。

 対してお相手は、そんな私に対して途轍もなく怒りながらも、それをひた隠しにしながら良好な関係を続けようとしていたため、いくつか歪んだ行動に出ていました。

 

 その中でも決定的だったのは、私に対して何度も仲良さげにリプライを飛ばして来ながら、その特徴的な口調で、質問箱という匿名サービスにおいて、推しの名前で私を傷付けようとしてきたことです。これが一番、許せなかった。

 思い出すと私が胸糞悪いので、詳しい内容は伏せます。本当に悲しかった。私がおめシスばかり推しててアイちゃんを推していない、ということを言っていたのですが、この人は本当はそんなことを言いたかったのではなく、ただ私を一番痛めつけられるのはアイちゃんとおめシスの話題である、と、分かっていて名前を出したのです。

 それだけのために、他人の、しかも推しの名前を使う。どんなに私がその人に対して嫌なことをしていたとしても、私にとっては、とても卑劣で、度し難く、許せない行為でした。

 

 私も私で、そのことをツイキャスなどでお話をしてしまったのが良くなかったと思います。たぶんですが、聴かれていたような気がするので。それについては、申し訳なかったと反省しています。

 

 それとともに、こうしたやり取りが、推しにも届いてしまっているのでは? そして、もしかして無関係な推しにもそれが届いてしまうのでは? と、不安を抱いていました。結果として、それはほとんど杞憂に終わるのですが、その杞憂が思わぬ苦しみを招きました。

 まず、アイちゃんに嫌な気持ちを届けたくない、と思った私は、最初はアイちゃんに関するツイートを減らしました。元々、あまりツイート出来ない性質なもので、そこら辺は何とかなっていました。その後、当該お相手が私についてツイートすることにより、そのお相手以外からも私に対してDMなどが来る中、もしかして、無関係なおめシスのことについても、その人たちからツイートで触れられてしまうかもしれないと危惧しました。

 おめシスは、エゴサが頻繁なVTuberさんです。みんなの事をよく見てくれていて、想いに応えようとしてくれます。そうした彼女らのエゴサに、不穏なものが引っかかってほしくない。その一心で考えたとき、焦った私は、「おめシスを推すのをやめよう」と思い立ちました。

 もちろん、好きでいることを簡単に辞められるわけがありません。今でも、変わらずに大好きです。でも当時は、そうするしかないというところまで考えていました。あるいは、思い詰めていた、という言葉が適切かもしれません。

 2019年11月頃から数ヶ月かけて、「忙しい」を理由に、少しずつおめシスから離れていきました。動画を観た報告をしない、リプを減らしていく、リツイートを減らしていく、そしておめシスのチャンネル登録者数20万人達成を最後に、関連ツイートにもいいねすらしなくなりました。

 

 推しを推せなくなる。そのことは、私が覚悟していた以上に、キツいことでした。特に、おめシスやおめが団とは、一定の関係を築いていたつもりだったので、その人たちと一緒に楽しむことが出来ないのが、たまらなくつらかった。そうした苦しみによって、当該お相手へのやり場のない怒りが募って、より許せなくなっていく。すごく嫌なループに入って1ヶ月、とうとう耐えきれなくなり、当該お相手からのブロ解を機に、「またおめシスを推すぞ」と決意して、今に至ります。

 最初は、普通にサラッと推し事を再開する予定でした。でもどこかモヤモヤしていて、上手く割り切れない。感受性が死んでいる。そう感じました。

 

割り切れないことを、認めること

 ここからは、昨日ツイートしてから考えたことを、ようやく並べていきます。

 私は、推しを盾にして身を守り、推しの名前を使って人を傷付ける当該お相手を、到底許せそうにありませんでした。それでも最近、推し事が充実してきて、「やっぱり推しが好きだな」と思い始めたところで、ふと「今なら許せるんじゃないか」と思い、例のツイートをしました。

 色々なご意見をいただきました。許さなきゃならないワケじゃない。思考を放棄してみてはどうか? 心を囚われてあげる必要なんてない、(許したくない相手を、許すでも、許さないでもなく)見てあげないという選択肢もある。そうしたご意見を聞いて、ああ、本当に良い相互さんを持ったなと、すごく勇気づけられました。

 同時に、たくさん考えました。この件では、何度も何度も、心の中でスッキリと答えを出しては、また「それは違う」と傷付き、思い悩んでいました。そしてそのループにおける現在最後の問い掛けが、昨日のツイートなのでした。

 ここまで割り切れないなんて、どうしたのだろう。そう思ってぐるぐると悩んでいたのが、今日。そして、今日は今日なりに、答えをひとつ出したので、それをようやく綴っていきます。

 

 思うに、一日ひとつ答えを出しても、良いのではないかと思います。世の中に割り切れないことは数多くあって、それを1回で全て解決するなんて、不可能なんです。だから、一日ひとつ答えを出してもいい。その度に、答えが変わってもいい。政治家じゃあるまいし、真剣に考えた結果なのだから。

 

 私は、このお相手について、今日、新たな答えを出しました。新たな、と言っても、4〜5年前から繋がりのあるフォロワーさんから見たら、「そんなことはとっくに答えを出していたのではないか」というような答えです。私は今日、先程、その答えを思い出していたのでした。

 

 私は、決して褒められた生き方をした人間ではありませんでした。加害的、暴力的な性格をしており、許されざることをしたことも、たくさんあります。そんな中で、どうやったら、みんなみたいに優しくなれるのだろう? どうしたら、自分の生き方を、そして似たような人の生き方を、肯定出来るだろう? と、必死に考えて、生きてきました。

 そうした同族たちも、見てきました。自分がしたことは分かっていても、どうすればそれをしないでいることが出来るのか分からず、ただ自分を呪うように生きている。そうした人たちを、許すことも責めることも出来ないで、「ただそこにいること」を、認めてあげることしか出来ませんでした。それは、自分に対しても同様に。

 

 だから、今回のお相手に対しても、そのようにしていこうと思うのです。許すことは出来ない。でも、これ以上責めることもしない。それでいい、と。

 

自分を許すということ

 そんでもって、つまらん推し事の張り合いで、推しの活動を見逃していたことに腹が立ち、焦り、オタクとしての正しい自分の在り方とは何かを考え始めて、また空回りしてしまっていたので、今日のメンタルは閉店ということになりました。

 たくさん傷付いたことで、感受性が曇って、「正しい」か「誤り」かでしか物事を判断出来なくなっていたなぁと反省しています。そんな自分を休ませて、許すことで、クールダウンして、事態の悪化を防ぎたい。

 元々、私は自分を傷付けたり身の回りの事を放棄したりする「セルフネグレクト」でメンタルを保とうとして、余計に荒れるタイプなので、自分にはなるべく甘くいたいと心掛けていたのが、最近は忘れて焦っていました。正しいオタクになるために、良いオタクになるために……、そうした考えが、自分の首を絞めていました。

 今日はゆっくり休んで、明日また仕事して、考えることを放棄していたいと思います。

 

 まさかここまで読む人がいらっしゃるとは思いませんが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

 

 それでは。

「愛にできることは……」

 こんにちは、ゼロサンです。

 以前に、似たようなエントリを書いたことがあるのですが、ちっとも進化が見られないので、今回はその進化が見られない部分を綴っていきます。

 ……って見に行ったら、2年前の記事でした。流石にその頃よりは多少違った考え方になってます。

 

 私は、相変わらず、愛というものが苦手です。

 かつて、RADWIMPSさんの『愛にできることはまだあるかい』にて「愛の歌も歌われ尽くした」とあったほど、世の中に愛は溢れかえっています。しかし時には「愛」の名のもとに、人を傷付けることを良しとしてしまうことがあります。

 

 気を付けていたって、止まらない。「あなたのためなのに」「ここまでしてやったのに」とキレる親や恋人の話など、よく聞く話でしょう。よく聞くのに、そんな話は、ひとつの反省も伴わずに、いつもどこかで起きている。

 

 結果として誰かのためになることはあるし、「誰かのため」と人に想いを寄せることこそ究極の思いやりで、ひとつの愛の形なのだろうなと思います。ただ、それが思いやり足り得るのは「すべてがその誰かのためになるわけではない」と知っている人だけです。

 

 そんな、「あなたのためだ、あなたを愛しているからだ」という言葉に、「それは本当の愛ではない」なんて、私は言いません。

 

 「人は意味のないものに意味を持たせる」。私のお気に入りのセンテンスです。自分が意味付け、信じたことを、「愛」と呼び、「生」と呼び、「死」と呼ぶ。本当は、元々は意味などないことなのに、「これは意味があることなんだ」とすっかり信じ込む。

 

 だから私は、「本当の愛」などという言葉が嫌いで、愛をすべて一緒くたにして神聖視する思想が大嫌いです。どうせそうやって私に暴力を振るってきた奴らも、同じことを言ってきたに違いないから。「本当に愛してるから」と。

 

 「愛」とは信念で、ひとつの譲れないもの、正義の後ろ盾のことを指すのでしょう。そう解釈するなら、絶対的で、神聖で、まるで穢してはならない地位を保つ「愛」ってやつも、きちんと疑ってかかってよい※ということになります。愛というだけで、過ちが許されるわけじゃない。「意味のないことに、勝手に意味付けをしている」んですから。

※「きちんと疑ってかかってよい」とは、「それは愛じゃないだろう」「あなたは口先だけだ」ということではなく、「愛しているからと言って、暴言や暴力が許されるわけじゃない」という意味。所詮すべての愛は、強烈な思い込みに過ぎない。

 

 意味のないことに意味付けすることで「人」と「愛」を繋ぐなら、「それでもあの日の君が今もまだ僕の全正義のど真ん中にいる」なら、「愛にできることはまだあるかい」という問いに答えましょう。

 

 「愛にできることはまだあるよ」。