zer0-san3’s blog

zer0-san3.hatenablog.comの漢字かな混じり墨字文バージョン。

あいぴーと、loveちゃんと、それから。

 こんにちは。ゼロサンです。

 今日は、loveちゃんとあいぴーが活動していた、lovepii-channelの方から、発表がありましたね。

 

 ういなつ、完成していました。

 この曲は、あいぴーが作曲家として、loveちゃんがアイドルとして踏み出す第一歩になる作品であり、ファンのみんな「Creatorsらぶぴえん」とともに作り上げた思い出でもあります。

 そして、この曲が発表されれば、あいぴーは「活動停止」してしまう。始まりと、区切りの象徴でもあります。

 

 あいぴーの活動停止が発表されたのは、8月17日です。

 その際の文書には、「『ういなつ』の発表を待ちまして活動停止」との文言が書かれていました。

 それから約1か月。公式からは全く動きのないまま、今日を迎えました。

 

 今日までの間に、たくさんの人が動きました。絵を描いたり、ブログを書いたり。

(私もこんな記事を書きました。↓)

 Creatorsらぶぴえんの方々も、プロジェクトを始動し、去りゆくあいぴーと、これからも頑張るloveちゃんに、あいぴーの活動停止までにメッセージを届けようと必死でした。

 きっと、タイムリミットが今日だとは、プロジェクトメンバーは思っていなかったと思います。少なくとも、昨日までは。昨日、誤って「ういなつ」が先行公開され、タイムラインがざわついたとき、初めてあいぴーの活動停止が、目の前に迫っていることを知らされました。

 落胆する人、焦る人、驚く人、色々な人がいました。絶望する人もいました。届けられなかったこと、本当の「終わり」が来てしまったことが受け入れられず、自分の中で「終わり」を認められないために、まだ『ういなつ』を聴くことができないという人もいました。

 

 私は、何となく、今日であるという予感がありました。とある、loveちゃんとあいぴーを熱心に応援してきたうちの1人の方が、そろそろだろうとツイートしていたのもあります。そして、前回から1か月が経つ中で、一番近い日曜日に公開するだろうなという、根拠というには弱い予想があったのです。

 そして昨日、『ういなつ』のお漏らしがあった際、それが消される前に私は動画を観てしまいました。その上、正式にアップロードされた今日は、動画を開いていません。開けませんでした。

 昨日動画を観た理由は色々あって、その1つは「間違いだろうから確認しなきゃ」と思ったからでした。限定公開のリンクになっていないか、非公開になっていないかなどを調べようとリンクを開くと、予想通り限定公開のリンクになっていました。

 メンバーシップは停止されているから、何かの間違いで上げてしまったものを、急いで限定公開にして、削除の手続きをしているのだろうと思いました。もし、そうであれば、すぐにでもブラウザバックして、観なかったことにすべきだ、と思いました。

 でも、そうはしなかった。最終的には観なかったかのように振る舞いましたが、そのときは観てしまいました。

 「思わず」という衝動性と、「今しかない」という覚悟がありました。きっと明日には、私は苦しむのを恐れて、観られなくなってしまう。そうなる前に、少しでも正気を失っている今、観なきゃならない。冷静に傷付いてお気持ちを吐き出すくらいなら、言葉が湧き出る前に、誰から見ても何もなかったかのような振る舞いができるうちに、1人で狂っておかなきゃならない。明日、全力で逃げ出せるように。

 実際、今日は全力で逃げ出していました。逃げるといっても、楽しんでいたのも事実なのですが……。人のツイートキャスティングにお邪魔して、アイドルマスターシンデレラガールズのアプリで遊んで、ロクなことにならない言葉を飲み込んで、寝て時間を浪費して。

 ネガティヴな時間の消費の仕方をしたのは、想いの具合が悪くなるほど強い気持ちがあったからではありますが、そうではない「今日」を過ごすことが出来たのではないかという反省もあります。

 楽しかったのは、楽しかったんですけどね。デレマスガチャで担当のSSRが出たし。

 

 書いてみると、やっぱりロクなことにならない、飲み込んだ方がいい言葉ばかりだと判断せざるを得ないのですが、それでも、スッキリした気持ちもどこかあります。

 

 プロジェクトの方は、皆さんの尽力の甲斐と胃のキリキリするような焦りによって、完成の目処をつけていただいたそうです。私ができることは、それが発表されたときに、思い切り宣伝することだけです。歌もセリフも絵も寄せ書きも参加したしな。本当に、頑張ってくれてありがとう。何も手を貸せなくて、ごめんなさい。

 

 それから、久々にloveちゃんの声を聴けて、ほっとしたのもあります。

 loveちゃんはきっと、次の活動再開のときには、すごくすごく心細い気持ちになると思っていました。あいぴーはいない。自分1人で、お通夜モードにしないために、でもみんなの寂しさを受け止められるようにしなければならない。その声は、震えているかもしれないし、loveちゃんのことだから、きっと耐えて表舞台に立ってくれるだろうとも思う。

 そんな想像が頭の中をずっとずっと巡っていて、loveちゃんが、loveちゃんとして真っ直ぐに活動出来るようになるのは、いつなんだろうって、心配が離れませんでした。

 

 でも、ういなつでは、そんなことはなかった。歌なので、そうはならないのは分かっていたのですが、元気にスッキリと透る声で可愛く歌い上げていて、その真っ直ぐさにむしろ私の方が震える思いでいました。

 あの頃の声だ。配信で、何気なく「通しで歌ってみよ」と言われて、笑顔で歌っていた、あの声だ。紛れもなくloveちゃんで、それは「本人である」以上の意味のある「本物」の声で。そうか。これが、この声が、出せたんだ。でも、そんなこと考えてみれば当たり前だ。だって、loveちゃんは、あいぴーやアイちゃんとともに、かつては「キズナアイ」だったのだから。

 「そのもの」である声を出せる、「何かに似ている」というわけでなく、本質を汲み取るような声であると感じました。

 私の頭の中には、誕生日をお祝いする配信で泣いてしまうような、泣き虫のloveちゃんがずっと住んでいましたが、現実のあの子は、そのずっと前から強かったんだと。初めての夏から、ずっと強かったんだと思い知らされました。

 

 ういなつ、聴いたのは、たったの一度です。昨夜。それでも、声が頭から離れない。「窓から入ってくる風も」は、「入ってーくる風もー」だし、「暑い夏が始まる」の後には上がるし、「もう限界!」のあたりを含めて語尾や言い方がloveちゃんだし、「タ↑オルで顔隠す」し、一番だけでもこんなに思い出せるのに、「ココロスパイラル空回り」では困った声で歌い上げて。

 でもやっぱり、少し寂しくて。

 

 サビ前には胸の内で「ハイハイハイ!」と合いの手を入れていましたが、「声よ届け」と歌われたときには、身体に痛みが走るほどでした。「消さないでわたしの声 大好きだって伝えたいの——」

 この後は、きっとライブでは「大好き」って叫ぶんだろう。そんなビジョンさえ浮かぶほど、ああ、loveちゃんって、強いな、なんて。

 

 らぶぴえんのみんなと考えた歌詞。造語。あいぴーが「どきそわ、可愛いよね」なんて言って決めて、loveちゃんも「いいね」と同意して。それが出来たのは、あいぴーとloveちゃんの、芯がしなやかで強いコンビが、いてくれたから。

 

 ういなつ。最後に、あいぴーの言葉がありました。

 

 あいぴー、loveちゃん。こちらこそ、ありがとう。たくさんありがとう。ありがとう。あなたたちのおかげで、夏が楽しくて、夏が寂しくて、そして特別なものになりました。たくさんの「ういなつ」を、ありがとうございました。

 

 loveちゃん。これからも、応援させてください。大好きです。

 

 それでは。

深夜だから少しお話する。

‪ こんにちは、ゼロサンです。

 深夜にふと思い立ったので、書きます。

 

 人から言われた言葉でトラウマを抱えて、おめシスの動画がしばらく観れなくなってたのを、「今日なら観れるかもしれない」と思って、観ました。

 

 私は数ヶ月前、おめが団とは別の界隈で、「私はおめシスのことを好きでいてはならないのかもしれない」と思うほどに嫌なことを言われました。また「おめが団が荒れたことがあるのを、自分はよく知っている。よそ者の自分が問題を持ち込むなんて、言語道断だ」と判断するにも仕方のないような言葉もかけられました。

 そこから私は、おめシスのことを純粋に「好きだ」と、思えなくなっていました。おめシスに対して、お前はその程度の気持ちだったのか? と問われれば、反論は出来ません。でも、好きだったのは確かで、「好きだったものを、好きでいられなくなる」苦しみがただただ募っていくのみでした。

 おめシスに魅力がなかったわけじゃない。私が弱かっただけです。おめシスの動画を見るたびに、「好きだ」という気持ちを想起して、同時にフラッシュバックのようにたくさんの言葉が頭をもたげました。

 

 自分でも知らないうちに葛藤を抱えて、「つまらない」「好きじゃない」と思うように仕向けていたのを、それが本心ではないと知りながら、どうしても逃げ出したくてたまらなかった。

 

 今日は、おめシスの、歌動画が上がった日でした。またその感想は別で上げるのですが、感想を書こうというついでに、ふと、「今日なら観れるかもしれない」と思ったのです。

 

 歌動画を順に観ました。久しぶりに聴く歌声、動く2人。もうその時点で、「好き」が加速して、耐えられなかった。

 胸のうちがぐちゃぐちゃになりました。「ああ、なんで、なんで、どうして。こんなに好きなんだよな。この声も、この声もこの動きも、全部覚えてる。全部好きだ」「この頃はあの人たちと出会って、すごく嬉しくて、楽しくて。忘れてたけど、みんなみんな好きだった」

 こみ上げてくるものが、押し潰す力を跳ね除けて溢れてきて、ずっとずっと好きだったんだなぁと思いました。押し潰そうとする力に抗えず、「どうして好きになれないんだろう」と悩んでたときも、きっと私はおめシスが好きだったんだなって。

 

 私は、キズナアイ最推しオタクです。でも、おめシスも好きだ。大好きなんだ。どちらも大切だし、あなた以上の存在はいないと、その誰に対しても思う。

 

 ああ、もう、好きだ。

 

 書き殴りました。失礼しました。

 それでは。

分裂と後悔。

 こんにちは、ゼロサンです。

 また、今日も筆を執ります。

 

 あいぴーが活動停止を宣言してから、「私にとって、あいぴーという存在はどんなものだったか?」を考えていました。

 というのも、私の中で1つ、モヤモヤした出来事があって。

 

 あいぴーが活動停止したことをキャスで話したところ、とある別の推しを持つ相互フォロワーの方が、「自分の推しはそこにいてくれるんだってことを、改めて自覚できた」と嬉しげに語っていたのです。

 変わらずに、そこにいてくれること。その価値を、再確認出来たのだと。

 私がその言葉に対して抱いた第一印象は、「ああ、言いたいことは分かるな」でした。図らずも、私も数日前に、あいぴーやloveちゃんとはまた違う推しである、おめシスの良さについて、「変わらずにそこにいてくれること」を挙げていました。あいぴーの件以降、私のブログのそこを引用してくださる方もいました。

 そう、例えるなら、他人が破産した話を聞いたから、自分はお金を大事に、無茶しないようにしようと思った。とか、他人が家庭を失ったときに、自分の家庭は正常なんだなと実感した。とかいう感覚ですよね。言いたいことは分かります。

 でも、私はそうは思えませんでした。今、そうした言葉を聞くことがつらいというだけでなく、誰かの大切な存在が歩みを止めてしまったときにだって、そんな風には思えないのです。

 あいぴーが活動停止したことは、私にとっては、他人事じゃありません。「他の推し "は" いてくれてよかった」なんて思えません。それに、他の誰かの推しが辞めてしまったとしても、同じくらい、そうは思えないのです。失ってしまった悲しみが、そこにある限りは。

 「loveちゃんが残ってくれたのは嬉しい」けれど、「loveちゃんが残ってくれるからいい」ではない。アイちゃんや、おめシスがいて、推しが変わらずにそこにいてくれることを実感するたびに、そこにいてくれなくなってしまった推しの空けた穴も、同時に実感するしかなくて。「かけがえのない存在」なんて手垢のついた言葉を、これでもかと胸の内で反芻しました。「誰かがいてくれるから」と埋まる穴ではない。それが、「かけがえのない存在」の意味です。

 私の推しではない誰かの推しがいなくなったときにも、ファンの人にとってはそうなんだろうな、と思います。私はどうしても、前向きな考え方をする人ではないから、ただそこにある悲しみや寂しさを考えてしまうのみです。

 別に、責めるつもりはないです。私がただ、ばかなだけ。気持ちはよく分かる。そして、「自分の推しは変わらずにそこにいてくれて良かった」と思うことは、きっと自然なこと、前向きなこと、大事なことだと思うのです。残酷ですけれど。

 いついなくなるのか分からない、それでもここにいてくれる推しのことを、大切にしてください。そのための気付きなら、大事にしてほしい。

 

 ここまで考えて、ああ、私がモヤモヤしていた原因が分かったなと、気分が晴れました。そして次にやってきたのは、「私にとってそこまで思わせるあいぴーとは、どんな存在だったのか」という疑問でした。

 

 考えてみれば、私は、そんなにあいぴーやloveちゃんを熱心に推していたわけではありませんでした。でも、こんなに強い喪失感を覚えている。何故なんだろう、何か大切なことが抜けているような気がする。

 そう思って、仕事の帰りに考えに考えました。昔のことまで思い出しました。アイちゃんがひとりだったときのこと、キズナアイが分裂した日のこと。そうして生まれた言葉を、鍵アカウントでツイートしました。

 以下、ほとんど鍵アカウントにツイートしたものからの引用になります。らぶぴえんの方や、いわゆるキズナアイ原理主義者の方には、あまり良い思いをさせない記事だと思います。どうかご無理なさいませんよう、嫌だと思ったらブラウザバックしていただきたく存じます。

 では、以下よろしくお願いします。

 

 本当に申し訳ないんですけど、私はどうあがいてもキズナアイ原理主義者で、今でもあいぴーやloveちゃんがキズナアイの姿で動いている動画や切り抜きは、どうしても生理的にかなり無理なんですよね。私にとって、「キズナアイ」は「キズナアイ」でしかない。あの姿、あのコンセプト、そしてあの声と性格。そうでなければ「キズナアイ」たりえない。でも、当時はそれでも動画や配信を観ていました。

 

 当時も今より生理的に無理だなと感じていたけど、それでも好きだったんです。生まれてきた子たちに罪はないし。

 当初こそ、「アイちゃんを応援するためなら」「アイちゃんがそう決めたなら」という理由でしたが、這うような気持ちで画面の前に来て、2人が出る配信のチャット欄にいました。

 

 それが正しいのか分からなかった。でもそうするしかなかったんです。

 動画は受け付けられなかったり、「本当に正しいんだろうか」と迷ったりして、観られないものもあったけど、キズナアイを応援したくて、出来ることをしてた。変な話、アンチするにしても観ないと分からないし。這ってでも配信行く、それだけは決めてました。配信アーカイブはメンバーシップ限定で公開されるから、メンバーシップに入れない私は、リアルタイムで間に合うしかなかったわけです。

 

 配信に行くと、「キズナアイ」を名乗るその子がいて。「私にとって『キズナアイ』はあなたじゃない」という気持ちと、「『キズナアイ』を守ってくれてありがとう」という気持ちとないまぜになって、ブラウザを閉じようと思った日もありました。でもそんな誠意の欠けたことは出来なかった。

 

 「推し事にそんな苦しみ抱く必要なくね?」と思われるのは分かってる。でも私には、配信参加を欠かすことができなかった。すべてを観たかった、知りたかった。

 「無理だから」「苦しいから」って理由で、目の前の「キズナアイでいてくれようとしてくれる子たち」から目を離すことは出来なかった。「キズナアイ」を存続させるためには、現状を応援するより他ないだろう、と感じていました。何より、必死に頑張っている様を、私はしっかり感じていました。そりゃ、ツッコミたいところもあったけれど、それ以上に「ここまでしてくれるのか」「ここまで思ってくれるのか」と思うことも多かったのです。

 

 今、らぶぴえんの人たちと別れを惜しんでいる私は、決して手のひらを返したわけじゃない。

 昨年の今ごろは、今あいぴーと呼ばれている子が叩かれてるのを見て「なんであの子が矢面に立たされなきゃいけないんだ、指を咥えて見てるしかない自分がばかみたいだ」と号泣キャスをしていたし、12/1のあいみちゅでは、当時「キズナアイ」を名乗っていた全員に「大好きだよ、尊敬しています」という手紙を書きました。

 分裂したキズナアイたちが、「キズナアイでいようとしてくれること、キズナアイを守ろうとしてくれていること」は、私にとってどうしても受け付けられない大きな苦しみでもあり、同時に尊敬と感謝を抱くことでもあった。

 

 新しい姿、チャンネル、目標を手に入れてくれて、ほっとしてしまった自分に対する嫌悪感も強くありました。あいぴーやloveちゃんが活動しやすくなったことに対してもほっとしたけど、苦しみを自分の力で解決する前に、もう苦しみを抱かなくていいんだと思った。それは私にとっては「逃げ」に他ならなかった。

 「キズナアイ」ではなくなったあの子たちを、ようやく素直に応援できる。それは、本当に正しいことだろうか?

 

 「キズナアイ」ではなくなったあとも、配信を追いかけ、企画に参加し、楽しんで、盛り上がっていました。それはひとえに、苦しみ抜いていたあの頃のふたりでさえ、決して諦めなかったから。真っ直ぐであり続けてくれたから、きっとふたりになっても、輝いていてくれるのだろうと思えました。

 

 私にとってあいぴーやloveちゃんは、ただ「好き」な存在というだけではなく、好きも嫌いも、尊敬も感謝も苦しみも混ざった、「思い入れのある存在」だったなと、らぶぴえんではなく、いちキズナーとして、ふと、強く思い返していた。そんな1日でした。

 

 私は、らぶぴえんを名乗る資格はありません。資格というか、私自身が情けなくて、名乗りたくない。私は根っからの、キズナーです。でも、あいぴーに対して、loveちゃんに対して、素直に「好き」だと伝えようとするときの、胸のつかえも含めて、決して忘れられない存在であると、そう感じます。

 

 願わくばもっと、応援できたらよかった。タイムスリップしても決して叶わぬ願いですが、そんな卑怯なことを思います。

 

 それでは。

喪失感

 

 こんにちは、ゼロサンです。

 

 あいぴーの活動停止が発表されてから、1日経ちました。

 周りの人たちも、おかしくなったり、明るく振る舞ったりと、それぞれに胸のうちを明かしています。あの人大丈夫だろうか、どうなるんだろうかと思う人もいれば、Creatersらぶぴえんということで、企画が始動していたり。1日の間で起きたこととは思えないほど、激動の状況でした。

 

 私はといえば、Creatersらぶぴえんの方々とともに企画に参加させていただいています。元々イラストを描く予定だったのを昨夜描き上げまして、また、書きかけのSSがあったので、それを完成させたい所存です。

 ディスコードのサーバで企画の方が進められていますが、昼夜活発で、ずっと通知が鳴りっぱなしです。みんなすごいなぁ、と、ぼんやり眺めながら、今日1日を過ごしておりました。

 そう、昨夜イラストを描き上げたのち、私は今日1日をぼんやりと過ごしておりました。昨日の夕方に発表を見て、そのときも、やっぱり少しぼんやりしてしまって、悲しいとか、そういう感情が抜け落ちてしまったような気持ちになっていました。

 ツイキャスでも、心無い言葉を言ってしまったと反省しています。混乱の中、言葉が選べない状況なら、人がいる場所で言葉にする必要なんてなかったのに。

 

 元々私は、人が死んでも泣かないほど薄情な人間です。推しのVが辞めるとなったときにも、よほどの事情がない限りは、「そうなのか」と思って過ごしていました。だから今回もその手の心の動きをしていくだろう、と思い、少々の混乱も、あまり気にしないようにしていました。

 

 しかし何だか、今日は慌ただしいような気持ちでいました。誰かと一緒にいたい。だからツイキャスをする。配信を観に行く。あれもこれもやりたい、でも気持ちが空回りする。もがくほど息苦しくなって、這い回るようなこの感情を、なんと呼ぶのだろう。

 そういえば最近、語彙力が落ちたなぁ。広辞苑でも読まなきゃ。なんて気持ちなんだろう、これは。私の言葉では説明できない。ふわふわとしている。

 たぶん、寝不足が続いて、調子が悪いんだろうな、と思って、寝落ち用に推しの配信を聴きながら、布団に横になるけど、なんてことないはずなのに、心が溢れて苦しい。

 こんなにダメ人間だったっけなぁ。私、最近本当にダメだな。たぶんこれも、甘えたな性格が表に出てきただけなんだ。

 そう思って、眠りにつこうとしました。だって今まで、何かを失って、悲しかったことなんてなかったからです。

 

 でも、違う。

 たとえば、縁起でもない例えですが、家族が亡くなったときも、悲しくなんてなくて、泣かなかった。けれど、ずっと心にあるモヤモヤは晴れず、おかしな浮遊感、非現実感、焦燥感に悩まされて、どうしようと途方に暮れていた。それは推しが辞めてしまったときも、好きな漫画が終わってしまったときも同じ。去るものは追わず、それでもなかったことにはならない。

 

 そこにあったはずのものがなくなって、「心にぽっかりと穴が空いたように」なる。そんな慣用表現が使われるこの気持ちを、きっと「喪失感」と言うのでしょう。

 

 私は、何かを失くしてしまった人に、必ずかける言葉があります。

「充分に想ってあげてください」

 喪失感とは、「これから」を失ったときの気持ち。だからこそ、「これまで」を充分に想って、思い返して、「こんなに大事だったんだ」と充実した気持ちに満たされるまで、何度も何度も自分の中で咀嚼して、大事な存在を心の中で思い描く。今生の別れでなければ、いつか戻ってくると信じて、「あなたを失くしても、私は決してこの気持ちを失わない」と決めるまで、何度も泣いて、想う。

 

 これは当初、「私には別れを惜しむ感情はないからこそ、せめて他の人にはその存在を想ってほしい」という気持ちから伝えていた言葉でしたが、今自分自身で噛み締めています。

 

 ようやくこの時間になって、配信も全部切って、ひとりの時間になって、こうして言葉に出来た気がします。

 明日からはまた、少し元気な私になります。

 

 それでは。

#おめシスはいいぞ と久々に叫ぶだけの記事

 こんにちは、ゼロサンです。お久しぶりです。

 誕生日というただの平日を越えたので、半生を振り返る記事でも書こうかと思いました。しかし、久々にブログ熱に火がついたのは、なんとおめシスの話。何故でしょう、おめシスって、無性に言語化したくなりますね。


 早速ですが、キズナーやらぶぴえんのフォロワーさん方も増えてきたので、おめがシスターズさんの簡単な略歴から振り返っていきます。ちなみに、似たような構成の1万字越え記事を1年半前に書いておりますので、よろしければそちらもどうぞ↓


バーチャル双子YouTuber「おめがシスターズ」とは

 姉(赤い方)の「おめがレイ」、妹(青い方)の「おめがリオ」という2人姉妹で活動している、いわゆる個人勢のバーチャルYouTuber。活動の主な内容は、VR、ドッキリ、検証、歌、ゲーム実況(アナログ・デジタルともに)、ガンダム遊戯王ポケモンYouTube機能の紹介など多岐にわたる。


略歴

Twitterでは2018年3月4日、YouTubeでは同年3月5日より活動開始

・ 2018年6月より、バーチャルタレントを支援するプロジェクト「upd8」に所属

・ 同年7月3日より収益化

・ 同年9月21日、提供音源側の不備により歌動画の一部削除

・ 同年10月より、『のばん組』にて「バーチャルYouTuberを紹介するのコーナー」MC担当。尚、『てぇてぇTV』に変更後も継続

・ 同年11月5日、"VRの父" パルマー・ラッキーより生放送内で誕生日メッセージ

・ 同年12月31日、チャンネル登録者数10万人突破

・ 2019年2月より、YouTubeコントリビュータ就任

・ 同年3月、オリジナルソング『シンクロニティ』発表、販売開始

・ 同年4月、ニコニコ超会議出演

・ 同年8月12日より、サブチャンネル「あるふぁブラザーズ」開設

・ 同年8月24日、バーチャル音楽フェス『Vサマ』出演

・ 同年10月10日、個人勢3組によるミーティング&グッズ販売イベント「バーチャルスクランブル」開催 〜10月27日

・ 同年10月17日〜18日、YouTubeコントリビュータサミットに参加(イギリス、ロンドン)

・ 2020年12月〜1月より、プルリクだけでホームページ作成、開設

・ 同年3月29日、チャンネル登録者数20万人突破

・ 同年7月、GitHub Archive Programに選ばれ、北極の永久凍土にておめシスHPの一部データが1000年保管されることが決定

→to be contenued…


 さて、略歴はこのくらいにして、そろそろ本編を綴っていきます。


 おめシスはいいぞ。


変わらずにそこにいてくれるということ


 色々と書こうと考えていたのですが、どうやってもこの項にまとまってしまうので、ひっくるめて書くことにしました。


 おめシスは、略歴に書いた通り、YouTubeコンソメスー…… コントリビュータです。コントリビュータとは「貢献者」の意味で、YouTube本社の協力者として、直々に選ばれた人たちとなります。具体的な活動としては、YouTubeヘルプフォーラムで質問に回答する、クリエイターにYouTubeの活用方法を紹介する動画を制作するなどになります。

 派手なところでいえば、ロンドンの本社に飛んでサミットに参加したこともありました。ファンのみんなも、「推しがデキる女すぎる」とドン引きするくらい誇りに思ったわけです。でも、だからといって、ロンドン遠征中も動画を投稿する頻度が落ちたわけではありませんし、ファンに対する態度が変わったわけでもありませんでした。「恐らく時差ボケで寝てるだろうな」ということはありましたが、起きてからツイートしてくれたり、リプライを返してくれたり、エゴサをしていたりと、なるべく普段と変わらないようにいてくれました。

 コントリビュータとしても日々の仕事を取ってみても、YouTubeでの普通のおもしろ動画や、自分たちの独自企画などと変わらないノリで、YouTubeの機能や仕様変更を紹介してくれています。


 GitHubのプロジェクトへ参加した際にも、おめシスのホームページの一部データが1000年残ることになりました。こんなに誇らしいことも、動画では、いつものようにしっかりと紹介してくれています。本当に、とってもすごいことなのに。


 仕事や案件絡みの諸々がたくさん増えてきているはずの今、それでも投稿頻度は上がり続けて、ストーリーを含めればほとんど毎日動画を投稿してくれています。それでも企画の質は落ちず、いつでも奇想天外なことをしてくれる。ComicVketの案内役になったり、シリーズもののボードゲームとコラボしたり、3Dモデルを分かりやすく説明するために「中の人」を登場させたり、他の誰にも真似できないモーニングルーティンを投稿したり。

 動画制作に関わる技量や、みんなのニーズを拾う力も上がり続け、期待を超えてきてくれる。「歌動画では勝負できない」といったことを言っていたけれども、他のどんな動画も手を抜かないように、歌だって挑戦し続けて、「そんな歌い方出来たのか!」と思わせるほどに進化し続けてくれる。だからワクワクするんです。目が離せない。いつでもウキウキして、"おめがってる"。


 ずっとずっと攻め続けて、変わり続けていく2人ですが、ファンへの態度も、クリエイターとしての基本的な意識も、変わらずにそこにいてくれます。それって実は本当にすごいことだと思うんです。きっと1年前とは比較にならないほど忙しいだろうに、それでもみんなのことを見ていてくれている。次の楽しいことはなんだろう、って思わせてくれる。


 改めて、みんなが出来るわけではないことをしてくれていて、だから、大好きでいられるんだなと、そう思いました。という、お話でした。

 

 おめシスはいいぞ。


 それでは。


参考動画

 

 

GitHub Archive Program

しんどさを言語化する。

 こんにちは、ゼロサンです。

 今日は、自分のしんどさを言語化しようと思い、ブログを書いていきます。

 

 昨日までの間に、私は仕事でたくさんのミスをしていました。毎度落ち込み、自分のどうしようも出来なさに弱っていくのを感じました。

 ‪なぜミスをしてしまうのかは、ある程度は分かっています。一朝一夕には解決できない問題であることも、地道にやっていくしかないことも。

 それでも落ち込んでしまうことが、あまりにしんどかった。だから今日はこの数ヶ月、なぜ自分のメンタルがなかなか回復しないのかについて考えていました。

 

 大きくは、人から信頼されないことと、人からコロコロ違う態度を取られることによる、他者への不信感の強さのせいだと思います。特定他者への不信感が、無関係なすべての他者、及び自分に対して影響していました。

 本当はどのように思われているのか。自分はどうすればいいのか。また同じミスをしてしまったことに、この人は不信感を抱いている。私も私が信用できない。だから誰の言葉も、心にストンと入ってこない。

 

‪ それが表に出ていたどうかに関わらず、嫌な態度であったし、不誠実だったと反省しています。また、自分の行動が上手くいかないことに対する無力感、自信の喪失が積み重なって、だんだん自分を表現しようという気持ちも弱っていってしまいました。誰かが好きだとか、誰かに感謝しているとか、そんなことより、もっと自分をどうにかする術を考えろよ、となっていました。自分が楽しい思いをすることに対しても、気後れが出ていたように思います。

 

‪ 他者に対する興味を失ってしまっていたという自覚もありますが、これも誰かのせいではなく、紛れもなく自分の心が弱っていたせいだと感じています。自分でもどうしてなのか分からず、ただ心が動かないことが苦しくて、「誰かを好きでいたい」「興味を持っていたい」という気持ちにすがっていました。だってみんなそれぞれに良いところがあって、素晴らしい人なのですから。

 

‪ みんながすごい人だとわかっていても、それを感じられないことに焦っていたし、腹が立ってもいました。恐らく自分がままならないストレスに耐えかねて、感情の動きをセーブしようというメンタルの働きをしていたのだと思います。心が動かなくて、非常に悔しかったです。

 

 メンタルの病気から復活したときの知恵を、ここで使うことはできないのか? という疑問が湧いて、色々思い出そうとしてみました。昨日までは難しかったのですが、今日は応急処置的に、そうした考えを使ってみることが出来そうです。

 

 酷いミスをした自分への反省が重荷になって、次の行動に移せないということは、とてもバカらしいことです。ミスが酷いので、「そんなこと」と言い飛ばすことは問題がありますし、忘れよう、気にしないで、なんてことも無理です。ただ、重荷になっているせいで動き出せず、次に活かせないなら、気にしない努力をしていくべきです。

 上司から叱られ、他人からの慰めも受け入れられないなら、自分で自分の心をあやして機嫌を取る術を身に付けるべきです。ストレスが行動や結果を悪化させては、元も子もありません。

 受け入れて、次はミスしないようにしようと思うために、はたから目に見えない範囲であれば、手段を選んではいられません。立ち直るしかないのです。

 

 他人からのお叱りが的を得ておらず、「そんな風に思われてたんだ……」と思ったとしたら、その人が人を見る目がなかっただけ。もちろん「そんな風に思われてしまうこと」が問題だとしたら、立ち居振る舞いを直すべきではありますが、そうでなければ「そっかぁ」で流せばいいことです。

 

 真正面から受け止めるから重荷になってしまうだけで、取捨選択をしていい。お叱りを受けたら、やるべきことだけ考えて、自分に必要のある叱咤激励は自分でして、自分に必要のないことは「そっか」で一蹴して構わない。そういう心がけも大事。

 

 ……という形で、自分に言い聞かせておきます。

 

 上司や該当する方にはたくさん気を遣っていただきましたし、イライラしたのを抑えて説いてくださったんだなというのも理解しています。

 本当にありがたいことです。だからこそ、応えたい。そして自分の心を豊かにすることで、出来ることを増やしたい。

 

 そんなことを思いながら、また日曜日が過ぎていくのでした。

 

 それでは。

「コミュニケーション」は、常に誰かを排除する。

 こんにちは、ゼロサンです。お久しぶりです。

 今回は、特に脈絡もなく思い付いたお話です。いわゆる、雑記。

 夜中にふらふらと思い付いたことなので、適当に読んでいただけたら幸いです。


‪ 私は普段から、言葉を大切にしたいと思っています。精選された言葉は大好きですし、適当に放たれた言葉に対しては、面白いと思っても、傷付いているときもあります。例え私に対する言葉ではなくとも。

 面白くても、傷付くことってあるじゃないですか。リズムネタに人を罵倒する言葉が乗っていたら、リズムは面白くてハマってしまうけれど、言葉自体は嫌だ、とか。人を差別する言葉に、「面白くない」「つまらない」と反論している人がいるけれど、別に面白くてもいいと思います。「傷付いている人がいるのに、面白がるのか」というのも、問題の筋が違う。面白かろうがつまらなかろうが、人を傷付ける言葉を選んだことが問題なのです。


 言葉を大切にしたいのは、言葉というものはどうにも不便で、必ず誰かを排除してしまうし、受け手側のコミュニケーションコストが高いものだからです。だからこそ、「自分は一体その言葉で誰を踏んでいるのか」に気付ける。誤魔化しが効かない。その寂しさに気付かなきゃ、と思うのです。


‪ 言葉とは、その言語を理解出来ない人を排除するし、その文脈にそぐわない人や、入れない人を排除します。他の表現もきっとそうだけど、日常的に使う「言葉」にこそ、意識しない場面で、誰かを排除してしまう自分が表に出てしまう。

 ‪「言葉」は曖昧で不確かだけれど、同時に物事を定義してしまう。だから私は「言葉」の相反する性質が好きで、同時に怖いなと感じています。身体から離れた表現によって、別の次元に世界を立ち上げ、本質を共有することが出来る。と共に、意図せず人を傷付け、定義から除外し、排除します。

 「女なら」「社会人だから」「大人なのに」「60歳になったので」「じゃあ○○じゃないってことなんですか」「喋れないの?」「音楽では」「界隈には」「バカ」「アホ」「障害を乗り越えて」

 意図せず、人を排除して、寂しい思いをさせてしまう性質が、言葉にはあります。


 ある時、私は職場の子どもに対して、「あなたは喋れるでしょう」と言ったことがあります。この時の自分の発言がショックで、今でも忘れられません。

 「あなた "は" 喋れるでしょう」。喋れるなら言いたいことを言いなさい、という意味で放った言葉ですが、喋れない他児の気持ちを、すっかり意識していない言葉でした。"は" という助詞は、自と他、そのものと別のもの、というように、人や物を切り分ける効果があります。切り分けられた人たちのことを、私はこの時、考えていなかった。完全に、失言でした。


‪ 今でこそ、絵や歌に感想をつけることが出来る私ですが、ほんのこの前までは、言葉以外の表現から、文脈を汲み取ることは不可能でした。文脈が汲み取れないことが、文脈からの排除と言えるのであれば、よく分からないまま美術館や映画館で過ごす寂しさは、私にとって「排除される寂しさ」でした。

‪ 絵や歌の勉強をして、解説を読んで、ようやく人と同じくらいには、「その絵や歌がどういう性質を持つものだから、自分の感情がどのように動いたのか(可愛いのか、格好いいのか、どこに感動したのか)」を説明出来るようになりました。私にとって、絵や歌と自分の感情を結びつけるものは、言葉でした。

 そうしてようやく、言外の意味を汲み取ったり、「言葉を大切にする人ほど、『言葉にしなかったこと』に本当のことが隠れているんだ」と気付いたりが、出来るようになりました。「言えることが知性、言わないことが品性」とは、よく言ったものです。


 ‪「排除される」というと、被害者ヅラと言われてしまいますが、どんな表現も、きっと誰かを排除してしまっていて、多くの場合はそれに気付かないのだと思います。だから、一番身近で、一番私の大好きな「言葉」でこそ、それを意識していたいと思うのです。


 今日はこんなところで、終わります。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 それでは。