こんにちは、ゼロサンです。
今日はこんなタイトルで書きます。書き殴ります。
誰かに見られても見られなくてもどっちでもよくて、これは、私の気持ちの整理の話です。
一昨年末以来、人に優しくするのを、やめました。
といっても、何もしなくなったわけではありません。以前みたいに、狂ったように人に「好き」を伝え、人をよく観察して、お祝いしたり、慰めたりするのを、やめてしまいました。
そもそも、なぜ人に優しくしようと思っていたのかといえばの話をします。
元々、私は人に優しくすることに向いているタイプではありませんでした。「周りが見えてないよね」「先のことを考えて行動して」と、よく言われたものです。人に対する気づかいがなかなか出来ませんでした。観察力が低かったのです。人に対する共感力も低くて、自己中心的な性格でもありました。人を傷付けたり、人に恥をかかせたりすることもありました。
これらは全て過去形で済まされるべきものではなく、現在も続いている状態だと感じています。
これらの要素を排除したかった。自分の持ち得る能力の限界を越えるには、どうすればいいのか。どうすれば、「優しい人間」として生き直せるのか。優しい人間になるための生き方を探して、必死に生きてきました。
優しい人間になりたかった。だから、みんなをよく観察して、優しくしたかった。自分がそうされたかったように、人にしようと決意しました。
では、なぜ人に優しくするのをやめたのか。
一昨年以来、人間関係に疲れてしまうことがありました。また、その疲れてしまう原因について、自分が昔犯していた過ちと重ねてしまい、過去を思い返すことが多くなりました。
過去を思い返しているうちにふと、「私のしていることは、過去の自分から逃げているだけなのではないか?」と思い至りました。昔の過ちから逃げるために、必死になって人に優しくしていたのでは。償っても償い切れないものを償うために動くのは大切なことですが、そうではなく、ただ逃げていたのでは、と。
逃げるというのは、追いかけられ続ける限り逃げなければならないのですから、苦しみは増すものです。ただ人に優しくすることへの気づかいの労ではなく、自分が過ちから逃げるために他者を利用しているのであれば、それはお互いにとっても良くありません。
だから私は、息を整えるために、毎日駆け巡るように人に優しくし続けるのをやめてしまいました。
でも、このままではいけないと思うんです。優しくない人間は、人を傷付けてしまう。人望なんか欲しくない、と言えば全くの嘘になりますが…… なにせ、優しくするのをやめてから、自分にはドロドロのベチョベチョに承認欲求があることに気付いてしまったので……。
しかし「私の承認欲求が満たされないこと」より重要なのは、「人を傷付けてしまうこと」です。更には、「傷付いた人や、頑張っている人を見逃してしまうこと」。これも、なるべくなら解決していきたいと考えています。
決して、これまで「大丈夫ですか?」と声を掛けたり、「こういうところがすごいと思います!」と伝えたり、「好きです」と言ったりしてきたこと自体が、私にとって負担だったわけではありません。私はそれらを、やりたくてやっていました。そして、それらを「負担」にしてしまっていたのは、私自身の反省すべき生き方や、考え直すべき思考のほうです。
どうやって生きていけばいいのか、考え直すターンになったのだと思います。これからも、人を頼ったり、人に頼られたりしながら(頼る方がとても多いです、とても有難いことに)、自分なりに生きていきたいなという所存です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
それでは。