こんにちは、ゼロサンです。
今日は雑記を2つ上げようと思っていて、これはその1つ目にする予定の記事です。予定は未定。
読むこと
先日しぐれうい先生について書いた記事を、うい先生ご本人をはじめとして、たくさんの方に読んでいただきました。酔って書いた文章なので恥ずかしくもあり、同時に嬉しく、幸せなことでした。ありがとうございます。この自慢は飽きるほどしてきましたが、まだしばらく擦ります。え?
書いたものを読んでいただくのは、きっとすごく「大変」なことなのだと思います。これはかなり頻繁に話しているのですが、文章とは、思うに不親切なツールなのです。文字を読める人は、世界中を見れば、限られています。ことばは、当然、言語の壁を越えることはできない。絵と比較して情報が断続的で、パッと内容を把握することが難しい。加えて、「読む」という行為は、「見る」という行為よりも能動的で、とかく受け手のコミュニケーションコストが高いのが「文章」という表現方法です。
だからいつも、ご高覧いただくたびに、震えるほど喜んでいます。ありがとうございます。
そして、特に私が、その「大変」さを思ってしまうのは、私自身が文章を読むことを苦手としているからです。
読むことと、書くこと
とある相互フォロワーさんに、「オススメの本を教えてほしい」と尋ねられました。オススメの、本。「本」というのは様々な種類がありますが、読書をするならば、きっとズラリと文章の並んでいる書物のことを「本」と呼ぶのでしょう。
私は、文章を読むことが苦手です。それどころか、絵を眺めることも、音楽を聴くことも、すごくすごく苦手です。
いくつかオススメの本を挙げたあとに、そんなことを言うと、「意外、文章を書く人だから、たくさん読んでいるのだと思った」と言われました。
私にとってはかつて、全ての「表現」が、敵でした。「表現」を受け取ること、「表現」をすること、どちらも抵抗がありました。能力的にも、なかなか出来ずにいました。
そんなことをまとめたスレッドがTwitterにあるので、共有しておきます。
小さな頃から娯楽に全く触れられなかったため,文化を理解する素養がなかった.「音楽とか詳しい人に憧れる」と言うと,「聴けばいいじゃん」と言われたが,そうではない.特定の文化に含まれるお約束や文脈を受け入れる痛みが,怖かった.だから自分と波長の合うものだけ選んで,接してきた.→
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2020年9月27日
→でもそれはとても,息苦しかった.「詳しい人に憧れる」のは,知識マウントの出来ることへの憧れでなく,世界の広さを知っていることへの憧れだった.「別に好きなものだけ聴いてればいい」と思われようとも,私にとっては浅瀬では息苦しいということで,つまり好きに生きれなかったのだ.→
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2020年9月27日
→波長の合うものだけでは足りなくて,苦しかった.でも,知らないものに触れて,理解できない文脈に呑まれるのは,すごく怖かったし,寂しかった.推しのオリソンも1曲目まではダメだった.必死に,みんなの言葉を追って,文脈を理解して,聴き込んで,ようやく1つの文化に慣れてきた.→
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2020年9月27日
→ずっと,山を登ったり,海に潜ったりするイメージがあったと思う.世界を広げていくのは,心臓が破れるかと思うほど痛かったけど,「私は今,高い高い山を登っているんだ」と思って耐えてきた.山には頂上がある.そこを目指せば,きっと世界が広いことが目で見て分かるようになる.生きやすい→
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2020年9月27日
世界がきっとある.周りには誰もいなくて,だからきっとみんなはもう上にいるんだろうと思っていた.今,歌や動画,イラスト,漫画,アニメというものに怖がらずに触れて,何かを感じて,言葉にすることができるのは,みんなが手を引いていてくれたからだと,何となくふと思った.
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2020年9月27日
そして最後に、こんな風にも書いていました。
昼間の,このツイートの状態だったから,人の世界を覗く「文章」というものも苦手だった. https://t.co/HSxMT6Vmg1
— ZER0SAN3🤔(ゼロサン) (@ZER0_SAN3_2) 2020年9月27日
表現を受け取り、表現をすることが、自分の心をこじ開けてゆくようで、とても怖かったのです。「自分」「自我」「アイデンティティ」の基盤を築けずにいた幼少時の経験が、そのこだわりに表れていたのだと、今は考えています。
更には、言葉での表現にはもっと強い違和感がありました。言葉を知るたびに、自分が生まれる前からその概念が固定されていることが気持ち悪かったのです。「私の気持ちは私だけが知っているのに、どうして私の気持ちが生まれる前から、他人の作った言葉の方が存在しているのだ」と思っていました。
大切な人が死んでしまったとき。誰かにプレゼントをもらったとき。そのときの気持ちは、私にしか分からない。なのに、私が生まれる前から、その気持ちに「悲しい」という名前が、「嬉しい」という名前がついている。そして逆に、「悲しい」とは、涙が出ることで、胸が締め付けられることなのだ、「嬉しい」とは、笑顔になることで、心臓が飛び跳ねることなのだ、と決まっているような気がして、本当に怖かったのです。
未分化で、何にも例えられない、私の、私だけの気持ちを、誰かに伝えるには、分かりやすく型抜きして、箱詰めしなければならない。「悲しい」とか「嬉しい」とか、そうやって言ったときには、心の内も「悲しい」とか「嬉しい」でなければならない。涙を流さなければならない。笑顔にならなければならない。胸が締め付けられるほど苦しくなり、心臓が飛び跳ねるほど喜ばなければならない。それが、「心からそう思っている」ということなのだと、そう思っていました。
今はもう、そうは思いません。というより、慣れてしまいました。誰かと関わるときには、取りこぼされて独りになった自分を、自分で受け入れ、守らなければなりません。
1人でいるより,人といるほうがずっとさびしい.そこから自分がいなくなってしまう気がする.
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2020年1月9日
言葉にすること、表現をすること、人とコミュニケーションを取ることは、全て演技なのだという結論に達してからは、自分を騙し騙し、納得させています。
この文章を、当時の自分が読んだら、きっと怒られることでしょう。「ことば」にされてしまったら、自分の本当の気持ちはどこにあるのだ、と。自分の外側にある「ことば」というもので決めつけられるのを、最も恐れていたからです。どのように表現されても、取りこぼされる想いはある。その、取りこぼされるほうの自分の気持ちを、型抜きされて余した外側を、想わずにはいられなかっただろうから。
書くことと、描くこと
自分の想いを表現することも、誰かの想いを受け取ることも、すごく怖かった。だけど、自分の想いを表現する方法がほしかった。残しておかないと忘れてしまう、失ってしまう、覚えておきたかった大切なことを心の片隅に追いやってしまう。そんな自分の弱さを、一番分かっていたのは自分だったからです。
こんな気持ちを忘れないように、そして発散させるために、残しておきたい。色々な表現を試してみようとしました。
作詞作曲をしました。粘土で作品を作りました。絵を描きました。でも、どれも納得できない。特に絵は、私の心を苦しめすらしました。
私は、感情のイメージは映像や静止画で浮かんでいたのですが、いかんせん、絵を描くことが苦手でした。理由について、以下、3つの仮説を挙げます。
1つ目には、私は、斜視なので、立体視ができません。斜視でもできる人はいるものの、私の場合は、左目から見える視野と、右目から見える視野のズレをきちんと補正せずに取り込み、上手く風景を頭に入力できていないようです。生まれたときからなので、今まで「物との距離が掴めない」「静止画や写真と本物の見分けがつかない」以外に困ったことはありません。
2つ目には、対人認知能力が高くなく、人間の顔をハッキリと認識できない期間が、恐らく長かったのではないかと思います。
過去を遡ると、こんなツイートもありました。
対人認知,
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2019年10月25日
・人間の顔には目と鼻と口があることが,実感レベルで分かる.
・人間の顔のパーツには特徴があることが,知識レベルで分かる.
でとどまっているので,実在する人間の顔が一生描けない
18歳〜19歳あたりで,芸能人や友達の顔がある程度分かるようになったので,多少は実感レベルでも特徴が分かっているはず.対人認知能力も上がっていると思うんだけども.(相貌失認ではないため,雰囲気で人を覚えることができ,髪型を変えられない限りは日常生活に支障はなかった)
— ゼロサン🔴🤔🟢 (@ZER0_SAN3) 2019年10月25日
つまり、18歳から19歳くらいまでは、人間の顔が分からなかったということです。思い返してみても、絵が描けない理由の多くは対人認知能力の低さに集約されているように思います。人間の顔がどんな形になっているのかは、絵の勉強をすることで、ようやく分かるようになってきました。
そして3つ目には、そもそも根本的に、手先が不器用だということです。このことは、私が人と関わるときに、常につきまといました。
私は、人とともに過ごすことが、とても難しいと感じるほどに不器用です。ご飯を綺麗に食べられないし、何かを作ってほしいと任されても満足にできません。呆れられ、恥ずかしがられることも何度もありました。
絵もそうでした。「何を描いているのか分からない」と言われ、「怖い」と言われました。20歳を越えた頃に描いた絵を、「幼稚園の頃に描いたんだよな?」と言われたときには、どうしてそんな言葉でバカにされなければならないのかと思いました。
先ほどテレビで、「絵を描けない人はいない。人に見せなければ、みんな誰でも何かは描けるもの」と言う人を見かけました。しかし、私にとって一番、私の描いた絵を見せたくないのは、自分自身なのです。
思い描いたものが描けない、どころか、自分ですら何を描いたのか分からない。私が表現したいものは、私が残したいものは、こんなものではない。挫折を経験し、消去法で、文章で表現することに決めたのです。
これが、前回うい先生の記事で「絵を描ける女が怖い」と書いた意味でした。顔の良さや、声の可愛さに匹敵するほどに、私の自己肯定感を削るのが、絵が描けるということだったのです。
書くこと
消去法で決まった、文章というツールですが、これが案外自分にハマっていたなと今にして思います。
毎日毎日、文章を書き綴りました。知能検査でも、処理速度が極端に低い当時の私には、人と会話することは難しく、ひたすらに自分と向き合うために、ことばを紡ぎました。観念奔逸で訳の分からない単語を、ひたすらに。
観念奔逸とは、精神疾患の症状を指します。病的に非論理的な思考が頭の中を駆け巡ることです。躁うつでは、物理法則も無視したような突飛なアイディアを実現させようとする方向で発露し、統合失調症では、「猫は緑色だから卑弥呼だ」に代表されるような、ことばの組み立てに関する障害として表出します。本人の中では、論理が繋がっているように感じるのが、この症状の怖いところです。
疾患に困らされている最中には、自分の気持ちに近い言葉を探していくと、必然的に統合失調症様(よう)の観念奔逸じみた文章になっていきます。言葉を話しても、誰にも伝わらず、自分だけが外国語で話しているような錯覚に陥る孤独感は、恐怖でしかありませんでした。しかし、ひとりで書く文章では、誰も否定しません。理解できるのは自分だけ。そして、症状が改善されるほどに、自分でも何を書いたのか分からなくなっていく。
余談ですが、統合失調症者同士で会話をすると、面白いですよ。日本語的にどう解釈しようとしても、絶対に意味の通らない言葉の応酬も、本人たちの間でだけ、何となく通じ合っていると確信できる感じが。秘密の会話みたいで、楽しい。周囲の人には怖がられますが。
そうしてことばを紡いでは失くしていくのを繰り返して、なるべく自分の心を正確に残していこうとしたことが、だんだん経験として積み上げられていきました。それが私の武器となるほどに。
あるとき、文章を寄稿する機会がありました。謝礼つきの投稿サイトで、困っている人たちを知ってもらうという目的で運営されていました。私は、自分が困っていましたし、困っている人たちの助けになれるなら、と、筆を執りました。私が文章を読むことが苦手だから、なるべく簡潔で、誤字もないように。読み手の人が、自分のことでなくても、自分のことだと思ってくれるように。
しばらくして、謝礼をいただいたあと、「あなたのおかげで、自分のことがよくわかりました。ありがとうございました」という読者からの感想もいただきました。「こういう人が、こんな風に困っているだなんて、知らなかった。考えを改めた」という人もいました。すごく、すごく嬉しかった。届けることで、私も誰かに貢献できるのだと知ることができた、初めての経験でした。
今、児童福祉の現場にいて、時たま、自分の想いを言葉にすることを拒む子どもに出会います。私が、ことばにすることで生き延びてきたことは、生存者バイアスです。それでも、どうか想いを伝えることを諦めないで、と思ってしまいます。誰かがきっと、きっと拾ってくれる。そう思うのです。
それでも描くということ
しかし最近では、少しずつ絵を描くようにもなってきています。今日も描きました。絵を描くことが怖くなくなったのは、少しずつ、表現の幅を広げていかなければならないと思ったからです。
25歳という年齢にして、背負ってきた重いものを、ひとつひとつ、片付ける必要が出てきました。私は弱く、脆く、嫌な意味で繊細で、この年齢にして、また新たに背負い始めてしまったものも多くあります。もう、背負っていく気力も、体力もありません。大人にならなければいけなくなりました。無理に背負ったものに押し潰されても、手を差し伸べてくれるのは、同じくらいボロボロな同志くらいなものです。
伝えるための文章を書く筆を、へし折りました。私のことばで人を傷付ける人間が現れたからです。そんな風に、ことばを使われるくらいなら、誰かのためにことばを紡ぐのをやめようと。それも拙い考えなのは分かっていますが、積み上げてきた「ことば」に対する想いを一度へし折ったからには、また「もう一度」と思い直すのは難しい。
逆に、下手くそでもなんでも、一度は憧れた「絵」というツールに、手を伸ばしてみようと思い立ちました。自分を救った「ことば」を傍において、自分を呪った「絵」を背負子から下ろす。そうしてまた、ツールは違えど、誰かのために筆を執ろうと思います。
もしかしたら、また泣きべそかいて、「ことば」に立ち返ってくるかもしれないけれど。
身勝手で大変恐縮なのですが、まとめはありません。これは誰かのためのことばではないから。
ここまでご高覧くださり、ありがとうございました。それでは。